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リコリスとアップルパイ 1

「すぐに家に連れて帰りたい」と言う宗ちゃんに汚いままの身体を抱き上げられ、邸を出た。誰かに会うんじゃないかという心配は杞憂だった。邸はがらんとしていたし、外に出てからも誰かに会うことも止められる事も咎められる事もなかった。 宗ちゃんの車の助手席に乗せられ、ドアが閉められる。いつも通り、このドアは内側からは開かない様にされてるんだろうけど、そうでなくても逃げる気なんてなかった。逃げることなんて不可能だって、もう嫌という程思い知らされていたから。 妙に身体がゆらゆら揺れる。足や腕なんかは投げ出されてぶらんぶらんしてる。 変なの。 ───不思議に思って目を開けたら、そこには見慣れた内装が広がっていた。 「目が覚めた?おはよう、愛由。よく眠っていたね」 普通に横に並んで立っていたらあり得ないくらい近くに怖いくらい綺麗な顔があって、俺を見下ろし優しく笑っている。 「とても疲れていたんだね。無理もない……」 抱えられたまま入ったのは、いつも使っていた2階の寝室とは別の部屋だった。宗ちゃんが壁のスイッチを押して明るくなった室内は、これまでの寝室よりも広くて、クローゼットか何かがあるのか、部屋の中にドアがあった。部屋の奥の窓らしきものには全てシャッターが下ろされていて、外の光は入ってこない。もっとも、今が昼なのか夜なのかすら、今の俺には分からないけれど。 宗ちゃんは俺の身体をとても優しく、丁寧にベッドの上に横たえた。そのベッドのシーツの色や寝心地はこれまで使っていたものと同じで、その馴染んだ感覚は夢現だった俺の頭を現実に引き戻した。 ああ、戻ってきた。戻ってきてしまった。もう二度と、ここには帰りたくないと思っていた筈なのに──。 「愛由、よく頑張ったね。もう大丈夫。心配いらないよ。愛由のことは俺が守るからね」 傍らに腰掛けた宗ちゃんが、俺の頭を撫で、髪を鋤く。 耳触りのいい優しい台詞達は、まだ少しぼんやりしてる頭に「宗ちゃんは俺を助け出した救世主で本物の天使かも」なんて考えを浮かばせかけたけど、よく考えなくても「そうじゃないよな」と思い直す。少し眠ったお陰で、ここ最近にしては珍しい程に頭が回転しているらしい。ここは、安心できる場所なんかでは決してない。このベッドの寝心地にだって、いい思い出は皆無なのだから。 それでも──清潔で柔らかくて温かいベッドである事には違いなかった。地下室の埃っぽくて硬くて冷たい床の上じゃない。 疲弊しきった身体は、警戒を無視してその心地よさを全身で享受する事を勝手に選んでしまう。ここをどこだと思ってるんだ。傍にいるのは誰だと思っている。そんな警報も頭の片隅に追いやられ、あまりの心地よさに無防備に瞼を閉じてしまう。 「愛由、眠る前に何か食べないと」 宗ちゃんの声色にはまだ優しさが含まれていたけれど、それでも俺の身体は足が吊りそうになるくらい一瞬で緊張して、弾かれるように目を開けた。 「いい子だね。軽食を持ってくるから、少し待っていて」 宗ちゃんは俺の頭を撫でると、頬にキスを落としてから腰を上げた。そして、優しい顔をしたまま、ずっと着けられたままだった俺の首輪のリードをくっと上に引いた。ほぼ同時にカチッという音を聞いて、ピンと伸ばされたリードの先を見ると、銀色に鈍く輝く手錠が見えた。片方はベッド柵に、そしてもう片方はリードにかけられている。さーっと血の気が引くように体温が下がった。 「眠ったら困るけど、横になっててもよかったんだよ?」 ずしりとベッドが軋む。 幾許もなくトレイを手に戻ってきた宗ちゃんが、ベッド柵にひっつくみたいにして膝を抱えていた俺のすぐ隣に座ったから。 「行儀悪いけど、今日は特別」 宗ちゃんはいたずらを思い付いた子供みたいに無邪気にそう言って、ベッドの上にトレイを置いた。リコリスの独特な香りと、バターの美味しそうな香りが鼻に届く。トレイの上には、ティーセットと三角形にカットされたアップルパイが乗っていた。 「考えたんだ。ずっと考えてた。俺と愛由の一番幸せだった時はいつだったかなって」 リコリスのお茶。アップルパイ。───思い出さない筈がない。 「愛由は、あの施設で過ごした時間だって答えるかな?」 宗ちゃんがティーカップにお茶を注ぎながら言う。リコリスの匂いが、濃くなる。 「あの頃の愛由は俺だけに笑いかけてくれたし、俺だけを必要として、俺だけを見ていたね。けど………俺と同じ気持ちじゃなかった」 過去を懐かしむようだった宗ちゃんの声のトーンが、後半いきなり低くなった。 「本当に悲しかったな、愛由に拒絶されたのは」 「ごめんなさい」 「いいよ、過去のことだもの。けどね、愛由は知らなかっただろうけど、愛由があの親から逃れて施設に入れたのは、俺のお陰だったんだよ」 「え……?」 「愛由が虐待されてるって警察に通報したのは、俺なんだ」 宗ちゃんはフッと自嘲気味に微笑んだ。 「どういう、こと……?」 「あの施設で出会うずっと前から俺は愛由のことを知っていて、愛由に恋してたんだよ」 宗ちゃんは淡々と話した。 父親の所有する動画を見て俺を好きになったこと。父親に俺の初めてを奪われるのがどうしても嫌で、警察に通報したこと。 ──俺は終始目を丸くしていたと思う。 「どうして今まで言ってくれなかったの……?」 「愛由に嫌われるのが怖かったんだ。虐待してたやつの息子だって知られたら、好きになって貰えないと思ったから」 あの頃の俺は、まだ若くて確かに今より潔癖だったかもしれない。けど、好きになる、ならないは別として、それを知って嫌うなんてことはなかっただろう。感謝こそすれ……。 そんな事より───今の俺を苦しめ続けているのは紛れもなく宗ちゃんだけど、その宗ちゃんが俺を見つけて気に入ってなかったとしたら、俺はまだ今もあの狭くて汚いアパートでおじさんたちに弄ばれるだけの生活を送っていた可能性もあるのだ。そっちの方が、宗ちゃんと宗ちゃんの父親と俺との接点が偶然じゃなかったって事よりも何よりもゾッとする事実だ。 「ねえ、分かった?ずーっと愛由を守ってたきたのは俺なんだ。俺だよ。土佐じゃない」 思わず「やめて」と叫び出しそうになった。土佐を呼ぶ宗ちゃんの声が、地の底を這うように冷たく低かったから。 「宗ちゃ、」 「許せない。愛由はちゃんと罰を受けたのに、あいつは何の罰も受けてない。あいつの人生を破滅させてやるつもりだったのに。それなのにせっかく罠に嵌まったあいつを早々に釈放させるなんて、お父様は一体何を考えてるんだ……」 宗ちゃんは声を荒げた訳ではない。それでも手に取る様に分かる。言葉の端々に込められた苛立ちや強い怒りが。 「愛由。俺、あいつの事許せないよ。あいつ俺に、愛由が俺と別れたがってるとか、愛由は俺の事愛してないって言ったんだ。本当に酷いよね。俺すごく傷ついたよ、嘘だとしても。ねえ……そんなのは嘘だよね、愛由?」 さーっとまた体温が下がって、冷や汗が背中を伝った。空気がじっとりと湿っていて息苦しい。すぐ隣に座ってる宗ちゃんの顔は、怖くてとても見られない。 「どうしたのそんなに震えて。ああそうだ、冷める前にお茶をどうぞ。懐かしい味がする筈だよ」 カタカタ震える手で、それでも宗ちゃんに差し出されたティーカップを受け取った。飲み口が広くて浅い器の中の琥珀色の水面が細かく振動して、今にも零れてしまいそうだ。 「ああどうしたの愛由。一口飲んでみなさい。あの頃を思い出せば、俺への感謝の気持ちでいっぱいになる筈だから」 宗ちゃんの手が、俺の手の上に重なる。カップが口元まで持ち上がって、ゆっくり傾けられる。 独特の甘くて苦い味が口の中に広がる。あの時に飲んだリコリスの味。──本当にこれはリコリスの味?それとも薬の……。 「どう、落ち着いた?大丈夫だよ。今断罪しようとしてるのは愛由の事じゃない、土佐の事だ。だから、正直に話してごらん」 分かってる。それが嫌なのだ。自分をどうこうされることより、土佐に何かされることの方がよっぽど怖い。 「俺の事嫌いって言ったのも、別れたいって言ったのも嘘だよね?愛由は俺に抱かれなかったのが不満で、土佐を弄んで憂さ晴らししてただけだもんね?」 ───それが宗ちゃんのシナリオなんだ……。 宗ちゃんは優しい声色で言うけど、ちらっと見たその目は狡猾にな色に満ちていて、凍てつく程に冷たかった。 「次はね、確実に破滅させるためにあの車のブレーキパッドに細工をしようと思ってるんだ。そうなったら、破滅というより消滅させてしまうかもね」 あはははは。 宗ちゃんの高笑いが、逆に俺を冷静にさせた。怖がって震えている場合じゃない。土佐に手出しをさせてはいけない。その為に宗ちゃんの策に嵌まるなら、本望じゃないか。

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