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甘やかす 2

「天城先生」 病院の職員玄関を出た所でかけられた声は、仕事よりもあの女よりも何よりも煩わしい相手のものだった。 大きな溜め息と共に振り返った先にいるのも、当然の事ながら一番煩わしい顔だ。 「どうやってここを調べた?」 「あんたは有名人だから」 調べるのは簡単だった、と? 「職場にまで来るなんて非常識にも程がある」 「家の前で待ってても車で素通りされるもんで」 「一体何度同じ事を言えば分かってくれるんだ?」 「悪いけど何度言われても理解出来ないものは出来ない。及川に会わせろ」 この男のしつこさには溜め息を禁じ得ない。愛由にきつく帰れと言われてようやく邪魔物はいなくなったと思っていたのに、消えていてくれたのはたった1日だけだった。あの次の日には家の前で待ち伏せされ、詰め寄られた。「大学やめるってどういうことだ」と。それを聞いて俺はピンときた。こいつはヘラヘラしてる様で強かな策士だ。あの日のあれは諦めるフリだったのだ。そうして油断させた所で、大学で一人になった愛由を浚うつもりだったのだろう。だがこちらとしてもそのくらいは想定済みだ。大学なんか誰が行かせるものか。愛由はあの家から一歩も出さない。永遠にだ。 「愛由は病気なんだ。療養が必要なんだよ。それに、愛由自身が君には会いたくないと言っているんだから。愛由の事は俺が責任持って見る。愛由の事を想うなら、そっとしておいてやってくれ」 「及川は病気なんかじゃないだろ!けど、大学も行かないであんたに閉じ込められてたら遅かれ早かれ本当に病んでしまう。あんた精神科の医者なんだろ?なら分かる筈だ。及川を解放しろ。頼むから及川の心を殺さないでくれ!」 愛由が俺といて病む?そんな筈ないだろう。こんなに大事にしているのに。あの部屋に閉じ込めてはいるものの、不自由はさせていない。食事も栄養バランスを考え3食きちんと与えているし、排泄を我慢させたりもしていない。部屋も3日に1度はメイドに徹底的に掃除させて清潔に保っているし、毎日汚れるシーツ類はその都度交換している。──セックスとそれに伴う軽いお仕置きに多少の不満を抱いている可能性は否めないが、それも以前に比べたらほんの些細なことだ。愛由は今の暮らしに満足してる。病んだりなんかしない。 「妄想も甚だしいな。どうかしてるよ。君は愛由の友人だ。あまり事を大きくしたくはないが、いい加減にしないと警察を呼ぶぞ」 「呼びたければ呼べばいい。俺は及川があんたに監禁されてるって訴え続けるから。それでたとえ逮捕されたとしたって、俺は絶対に意見を曲げない。言っておくけど俺は一人じゃない。家族もいれば仲間もいる。ミスターとしての名声もある。あんたが警察にどんなコネがあるのか知らないけど、俺や俺の家族や仲間全員を黙らせておけると思うなよ。SNSだって何だって使って、あんたの悪事全てを白日に曝してやる」 「……随分と威勢のいい事だな。俺の悪事?俺が愛由を監禁してる?そんなのは可哀想なお前の妄想でしかないだろう。証拠はあるのか?言っておくが愛由の証言は証拠でもなんでもないからな。あれは本人も認めている様に全部嘘なんだから」 「真実はあんたのここにあるんじゃないのか」 土佐は自分の胸をとんと叩いた。生意気にも俺に対して何の恐れも抱いていない態度で。あの薬物の件で俺の力を思い知った筈なのに……。 「あんたの言うこと一から十まで嘘ばっかだけど、ちょっと胸に手をあてて考えてみろよ。あんた、欠片も良心がないのか?そんなことないだろ、同じ人間なんだから。ほんの少しだけでいい、及川の立場に立って考えてみろよ。及川の気持ちになってみろ。及川の苦しみを理解して、」 「もういい。もう沢山だ。お前とは話したくない。金輪際俺に近づくな」 「逃げるのか?」 背後から土佐の挑発ともとれる声が追い掛けてくる。虫けらの分際で偉そうに俺に指図しやがって。許さない。もう許さない。思い知らせてやる。虫けら同然に踏み潰してくれる。 * すうすう眠る穏やかな愛由の顔を見ていると、さっきまでの怒りがすっと晴れていくのが不思議だ。けど、決して消えてなくなった訳ではない。対処はする。厳正にだ。 「愛由」 触れたくて堪らなかった頬に触れ、そっと名前を呼ぶ。愛由の眠りは深くなかったのか、割合すぐに瞼が開いた。 「宗ちゃん」 俺の存在を認めて名前を呟いた口を唇で塞いでただいまのキスを贈る。 「ただいま」 「おかえりなさい」 「また寝てたね」 「ごめんなさい」 「いいんだよ。ひとりの時は好きに過ごすといい」 何もないこの部屋で出来ることなど暇潰しに眠るか俺の帰りを待ち侘びるくらいの事だけど。そう思いながら、けど決して声には出さずに愛由の腕に嵌められた枷をそっと外しにかかった。 首輪はずっと付けっぱなしだし、入り口のスチール製の頑丈なドアは確りと施錠してあって俺以外誰の出入りも許さない。それでもこの家を空けて愛由を一人にしておくのは不安があった。どう考えても逃げられる状態ではないけれど、それでもまた逃げられるんじゃないかという思いがいつも付き纏っている。だから手錠を増やした。いつもではなく、俺がこの家を空ける時だけだ。身体の前側でかけているから留守番中も最低限の行動は取れてしまう。けどそれでいいのだ。拘束の本来の目的よりも、離れていても俺を常に想い考える様にする事の方が狙いだから。 急所でもある首をいつも締め付けている首輪と、事ある毎に目に入り何をするにしても邪魔になる手錠は、俺の存在を愛由に深く刻み付けるのに最適だ。俺に愛され守られている事を、愛由は俺が傍にいない時でも常に想い続けている。息苦しく感じる度に。そして手を使う全ての動作をする度に。逃げようという気持ちなんて完全に削がれて微塵も湧いてこない筈だ。そもそも、こんなに大事にしているのだから、逃げたいなんて思う方がおかしいが。

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