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甘やかす 5
「あ……」
リードをしっかりと握りあの部屋のドアを開けてすぐ、愛由が声をあげた。その視線は、鉄格子を設置する工事を終えてシャッターが開け放たれた窓へと一直線に向けられている。愛由が気を失ったまま暫く目を覚まさなかったから、今はもうすっかり夜も更けて窓の向こうは真っ暗だ。
「見に行ってもいい?」
愛由がそわそわしながら俺を見上げた。虚ろでもなくぼんやりもしていない瞳で。
「ああいいとも」
頷き、束ねていたリードを弛める。愛由は吸い込まれる様に部屋の奥へと向かった。
「もう真っ暗だけど、何か見える?」
「星が見えるよ」
ほら、と愛由が指差した向こうには、綺麗な星空が広がっていた。
「ここでもこんなに星は綺麗に見えるのか」
そう言えば、夜に空を見上げるなんてことはもう何年もしていない。だから知らなかった。気付かなかった。
「照明落としてあげるよ」
「わ、よく見える」
何がそんなに面白いのか、鉄格子を両手で掴んで窓にへばりつき、愛由は飽きることなく空を見上げている。
「喜んでくれた?」
熱心な様子が愛らしくて背後から抱き締める。
「うん──」
首を回して俺を見上げる愛由の眼差しには意思があり、色彩があり、温度があった。そして……緊張や苦痛や恐怖とは対局の顔で、ふわっと微笑んだのだ。
「凄く嬉しいよ。ありがとう宗ちゃん」
──振り返ったらキスでもしてやろう。そして窓ができたくらいの事でこんなにも心を踊らせている可愛いらしい愛由をまた抱こう。今度は優しく抱けたらいいのに。そう思っていた。それなのに、俺は身動きが取れなかった。愛由の微笑みに射ぬかれて目を合わせていることができなくなりそうだった時、愛由が正面を向いた。ほっとした。また目線を逸らすなんて無様な振る舞いを見せずに済んだことに、俺は心から安堵した。
───もう誤魔化せない。俺が欲しかったものはこれだった。愛由の心からの言葉。心からの愛。そして愛由の笑顔。ずっと欲していて、何をしても手に入らなかった。手に入らないことが腹立たしくて脅して殴って怯えさせて言わせていた言葉たちのなんと陳腐なことか……。
心臓が普段より1.5倍早く動いている。簡単に言えば、ドキドキしている。前にこうなったのは、薔薇風呂を披露した時と、願いを叶えてあげると言った時だ。その時も愛由の本物の言葉を聞いて、俺は狼狽え今みたいに心音が早くなった。あの時も今も何も過激な事はしていないし愛由の淫らな姿を見ている訳でもない。星空を見上げる愛由をただ抱き締めているだけなのに、その愛由を抱き締める力の強さや手の位置なんかが酷く気になって、密着している部分全てから伝わってくる体温を異常なほど意識してしまう。もう数え切れない程何度も何度も身体を重ねてるのに。愛由の身体は黒子の位置まで全て覚えているくらいに知り尽くしているというのに。それなのに、俺は今酷く緊張している。
性的な興奮じゃないのに、気持ちが昂る。頭がグラグラと煮えたぎる様な高揚感ではなく、心地よく爽やかなそれだ。
───この感情は危険だ。前にそう思った理由が少しずつ見えてくる。この感情はコントロールできない。そして、こんなに狼狽し、緊張し、愛由と見詰め合う事すらできなくなる程の身体的・心理的変化を俺にもたらす。身体的変化はまるで戦闘態勢だ。心も落ち着かない。それなのにそれを不快ではなく快と感じてしまう。危険だと分かっているのにやめられない。さながらドラッグの様に、この想いは俺の心を侵食していく……。
愛由を繋ぎ止めておく為には、見てはいけない感情がある。気付いてはいけない真理がある。
分かってる。俺は甘やかし過ぎた。主導権を愛由に渡し過ぎた。このままではいけない。全部分かってる。けど──。
こんな感情を知って、今更やめられるのか。大して難しい事もなく簡単に引き出せる愛由の本物の言葉を、俺をこんなにも高揚させる甘やかな声を、俺は聞かずにいられるのか───。
考えるな。何も考えずに愛由を強引にここから引き剥がしてベッドに押し倒せ。出来るだけ乱暴にだ。この気持ちを制御するため。威厳と畏れを保つため。何よりも愛由を失わない為に───。
「もう真夜中だね。宗ちゃん明日は仕事?寝なくて大丈夫?」
図ったかの様なタイミングで言われて、俺の動きはまたピタリと止まってしまう。
「明日も休みだよ。今日は土曜日だから」
今しがた凶暴な事をしようとしていたのが嘘みたいな口調で答えると、愛由は感情が読めない声で「そう」と短く返事をした。俺が止めてしまったのは一時的な行動だけじゃなかった。さっき自分に言い聞かせた事の全てが、愛由の俺を思い遣る言葉に飲み込まれどこかへ流されてしまった。
「あ、ねえ。どうして真夜中だってわかったの?」
愛由の顔がまだこっちを向いている内にと思い、些か慌てて質問した。単純に不思議だった。この部屋も2階の部屋も時計は置いてないから、愛由には今が夜であるという事以外は知る術がない筈なのに。
「シリウスがあんなに高く上ってるから」
愛由が窓に向き直り、上方を指差した。
シリウス……?聞いた覚えはある。星の名前だ。一等星の内のひとつ。確かその中でも一番明るい星の名がシリウスだった筈。
───あれか。オリオン座の近くに一際目立つ明るい星。愛由がずっと顔を上げていたのは、それを見つめていたからなのだろうか。
「愛由は星、詳しいの?」
「詳しいって程でもないよ、好きなだけで」
「へえ。意外とロマンチストなんだ?」
「そういう訳じゃないけど……」
「愛由の好きなもの、か……」
セックスの時どこが感じるのか、どこが弱いのかは知ってる。けど、星が好きだなんて全然知らなかった。アイスクリームが好きな事は知っていたけど。人を使って愛由を見張らせていた頃、愛由が頻繁にアイスクリームを買い食いしていると報告を受けていたから。
──俺は愛由の身体の事は誰よりも詳しい自信があるけど、愛由自らがが何を嗜好し、何を欲しているのかはよく知らないのかもしれない。
「愛由、こっちにおいで」
愛由を抱き締めたままベッドまで移動する。けど、さっき思っていた様にすぐに押し倒して乱暴に抱く為ではなく、まずは話をするため。
ベッドの端に二人並んで座り、俺は愛由の顔を覗き込んだ。愛由はいつもの様に押し倒されると思ったのか身構えたけど、俺がそのまま愛由の顔を見詰めているだけなので、俺の顔を不思議そうに眺めた。俺が何をしようとしているのか一生懸命思考しているのだろう。やはり、ちゃんと瞳に光を宿している愛由は格段に綺麗だ。これまでの生活はセックスの時以外単調すぎた。こんな風にほんの少し刺激を与えてやればよかったのだ。ただただ甘やかすのでは意味がなかったけど、愛由の望み通りに甘やかせば、ほら。こんなに愛由は感情を豊かに見せてくれる。殴ったり怒鳴ったりするより簡単だ。俺の心を酷く動揺させる事だけは問題だけど───。
「ねえ、愛由の好きなものを教えて」
「好きなもの……?」
「愛由の事、知りたいんだ」
どう甘やかせば喜んでくれるのか、笑ってくれるのか──。
愛由は驚いた様な顔をしていた。それから、何を思ったのか顔を伏せてしまう。
「…………それは、俺が果物の中では何が好きなのかとか、犬派か猫派かとか、そういうのが知りたいってこと……?」
俯いたまま愛由が言った。どこか寂しそうに見えるのは気のせいか。
「はは、やけに具体的だね。けど、そういう事だよ。教えて、愛由の好きなものを全部」
「……みかんが好き。犬と猫なら犬が好き。ラーメンは塩味が好きで、甘いものの中ではアイスクリームが好き」
愛由は下を向いたまま一気に言った。まるで練習してたみたいにスラスラと。
「ラーメンなんて一緒に食べたことないね。俺も流石に作ったことないから、今度配達頼んで一緒に食べようか。他には?他にもいっぱい聞かせてよ」
「好きな色は白。コーヒーより紅茶が好きで、サッカーを観るのが好き。それから…………」
さっきまで流暢に話していた愛由が突然口ごもった。不思議に思って愛由の深く俯いた顔を覗き込む。薄暗い上に顔に影が出来て表情の判別ができない。
「それから?」
「…………ゲームと漫画が好き。あと、甘い玉子焼き……」
言い終えた直後、愛由の目から光る物が一筋流れた。
「どうしたの愛由。どうして泣くの?」
「ごめんなさい……」
「謝って欲しい訳じゃない。どうして悲しいのか、その涙のわけが知りたいんだ」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
愛由は首を横に振ってそう言うだけだ。
俺に隠し事をしようとするなんて……。少し前までの俺なら、腹を立てて愛由を地下室に引っ張って行っただろう。今だって腹が立たない訳じゃない。けど……怒りよりも悲しい。こんなに好きなのに、こんなに尽くしているのに俺に全てを打ち明けてくれない事が虚しい。
「……土佐か?」
「違う」
愛由はすぐに否定したけど、俺の口からその名前が出た瞬間に息を詰まらせたのを俺は見逃さなかった。
「そうか……」
「違うよ宗ちゃん、違うから……」
愛由はそう言うけど、俺に話せないこと自体が何よりの証拠だ。
あいつはまだ愛由の心の中に巣食っているのか。愛由の言った好きなもの。その中の一体いくつにあいつが影響を与えたのだろう。ああ、本当に腹立たしい。だけど、この気持ちのまま愛由を殴っても、縛り上げて鞭打ったとしても愛由は決して本当の事を言おうとしないだろう。そもそも、俺が知りたいのは真実ではない。そんなことはとっくに察しがついているのだから。
わざわざあいつをここに呼び出して決別させたのに。自分が俺のものだってちゃんと自覚してる筈なのに。それなのにまだ忘れられないなんて……。
心の中が矛盾でひしめきあう。
俺の物である愛由が俺の事ではなく他の男の事を考え泣いているのだ。真相を追求するしない以前にそんな裏切りを赦していい筈がない。今すぐに地下室へ連れていき、鞭打つべきだ。土佐の事など今後二度と思い出す気にならないくらいの強い痛みと苦痛を味わわせ、徹底的に躾るべきだ。脅迫と暴力が、愛由を俺の元に繋ぎ止めておくのに一番適していると知っている。分かっている。十分に分かっている。だからこれまでそうしてきたじゃないか。愛由に優しくしても決して愛由を手に入れられなかったという教訓だってちゃんと理解してる。けど………。それで本当にいいのかと問う自分自身がいる。脅し、暴力で支配し続け、偽りの「愛してる」を聞きながら一生一緒にいて、それで本当に幸せなのか、と。愛由の本当に言葉を、ありがとうの声を、喜びに彩られた顔を、笑顔を、微笑みを見なくて本当にいいのかと……。
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