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追憶 1
薔薇園では黒薔薇が見頃を迎えていて、ダマスクモダンの洗練された薫りで満たされている。その贅沢な香りを楽しみながらティータイムを……と思っていたけど、愛由はタイワンツバキが並んで植えられている一画が随分と気に入った様で、またそこに戻りたがった。
愛由のリードを幹の太い木に繋いで、薔薇園の中に設置されていたテーブルセットと予め準備していたティーセットを運んで来る。薔薇の装飾が施された青銅色の猫足テーブルの上にスコーンと紅茶を広げてティータイムに誘うと、また飽きもせず目玉焼きの花を眺めていた愛由が嬉しそうに戻ってきた。
「宗ちゃんは、誰に料理を習ったの?」
ラズベリージャムをたっぷり乗せた甘そうなスコーンを頬張っていた愛由が、突然思い付いたように聞いた。愛由が俺について質問するのは珍しい。
「残念ながらこのスコーンは俺の手作りじゃないよ。有名店から取り寄せたものだ」
「そうなんだ。けど、ご飯はいつも作ってくれてるでしょ?」
「まあね」
「宗ちゃんはお洒落な料理も作れるし、由信の家で食べてたみたいな料理も作れるよね」
愛由がお洒落な料理と言うのは、実家の専属シェフから習った簡単なフレンチやイタリアンを元にした料理を言っているのだろう。そして、由信の家で食べてた料理と言うのは家庭料理のこと……。
「実家の専属シェフと……あとはメイドに教えてもらったんだよ」
「メイド……?」
「そう。家庭料理は、全部ひとりのメイドから教わった」
「チ……シャーリーンみたな子から?」
「なんだ愛由、やきもちを妬いてくれてるの?」
「そういうんじゃないけど……シャーリーンは俺や宗ちゃんと話したがらないから、不思議で」
「……そのメイドは特別だったんだ。何せ、俺の産みの母親だったんだから」
「え……」
愛由は驚きに声を詰まらせた。
「俺は、お父様の血は引き継いでるけど、本当のお母様とは血が繋がっていないんだ。だからだったんだろうね。お母様は俺の事少しも愛してくださらなかった。そして産みの母親は、俺が12の時に何も告げることなく俺の元を去っていった。俺は、最後までその人をメイドだとしか思っていなかったんだ。優しくてお気に入りのメイドではあったけどね……」
誰にも話したことはないことを、今告白している。岬にも話したことはない。だってあまりにも情けなく恥ずかしい話だろう。あの天城家の子供として持て囃されてきた俺が、本当は妾の子供だったなんて。
いつになく朗らかで無邪気な愛由に毒され、偽りの仮面が剥がされてしまったのだろうか。いや、俺が聞いて欲しかったのだろう。他でもない、誰よりも愛する愛由に───。
「お母様は僕の事嫌いなのかな……?」
母親から構われずによく泣いていた俺を慰めてくれていたのはいつもそのメイドだった。
「そんな事ありませんよ。奥様は坊ちゃんに強い子になって欲しいだけで、心の奥深いところでは坊ちゃんをとても大切に思っていますよ」
「ほんとに?けど、お母様は僕の事邪魔だって言ったよ。他の子たちはね、みんなお母様と一緒に買い物に行くんだって。僕も一緒に行きたいって言ったら、邪魔だって……」
ひっくひっくとしゃくりあげて泣いていると、そのメイドは決まって俺を優しく包み込む様に抱きしめてくれた。
「悲しかったですね。気が済むまで泣いていいんですよ。私と坊ちゃんだけの秘密です。いっぱいお泣きなさい」
俺はそのメイドの前だけでわんわん泣けた。お母様は俺が泣くと露骨に嫌な顔をするし、お父様には男の癖にと叱責される。そのメイドだけが、俺を甘やかし甘えさせてくれた。そして───。
「坊ちゃん、今日はアップルパイを作りましょうか。坊ちゃんの大好きなバターたっぷりのアップルパイですよ。リンゴを甘酸っぱく煮詰めましょうね。さあ、奥様が帰っていらっしゃるまでに作って食べてしまいましょう」
そのメイドとは、アップルパイ以外にも沢山の料理を一緒に作った。料理は楽しかった。没頭していたら、悲しい事も涙も全部忘れられるから。メイドと一緒にスプーンで味見するのが楽しかった。一発で味が決まっていたら勿論嬉しかったけど、ちょっとしょっぱ過ぎたり甘過ぎたりしても嬉しかった。「失敗しちゃったね」ってメイドと笑いあえるから。失敗なんて今は苛立つだけなのに、あの頃はそれを楽しめる心の余裕があった。それはなぜか。笑い合いたい相手がいたからだ。大好きな愛由と、あんな風になれたら…………。
あのメイドが俺を置いて突然邸を去ったその日、学校から帰るとアップルパイが用意されていた。まだ温かかったそれを、俺は何も考えずに食べた。まさかそれがあのメイドからの最後の贈り物だったなんて夢にも思わず…………。
それから1年程が経って、もうあの人は戻って来ないのだと絶望と諦めが混じりつつあったある日。夜にお父様が部屋にやってきた。俺はベッドに横たわっていたけれどまだ眠ってはいなかった。今日返ってきたテストが凡ミスで100点じゃなかったことを咎められるのだろうかと思い、俺は寝たふりを決め込むことにした。けど、すぐ部屋を出ていくだろうと思っていたお父様はベッドの傍らまで来て、俺の顔の近くに顔を寄せてきた。
「真綾 に似てきた……」
強かな酒の匂いを漂わせながらお父様が口にした名前。それは片時も忘れたことのなかったあのメイドの名前だった。
「お父さ、ま……」
狸寝入りも忘れてどういう事なのかを尋ねようと目を開けた俺は、驚きに言葉を失った。近くにあると思っていたお父様の顔だけど、それが俺の想像の倍以上の近さだったからだ。今にもキスをしそうな程の距離だ。親が子供に贈る親愛のキスがあることは経験からではなく知識として知っている。それをお父様が俺に……?
「そ、宗佑。起きてたのか」
お父様は弾かれる様に俺から離れるとたどたどしく言った。そこにいつもの威厳は全くなく、焦っているというか、何か隠し事や後ろめたい事がある様な立ち振舞いで、いつになく慌てていた。
「お父様、真綾ってあのメイドの事ですか?」
「ま、真綾?何の事だ」
「お父様さっき言いましたよね?真綾に似てきた、と」
「そんな事言ってない。寝ぼけていたんだろう」
「いいえ僕はちゃんと起きてました」
「何を言ってるんだ。寝ていただろう、お前は」
だんだんお父様の声にいつもの強さと威厳が戻って来て、それと同時に俺の口応えをする気力が削がれた。言っても無駄だと思ったのだ。お父様が白と言えば、本当は黒でもそれは白なのだ。
「……そうですね、少し寝ぼけていたのかもしれません」
そう答えると、お父様は心なしかほっとした顔をして「もう遅いから寝なさい」と言って部屋を出ていった。テストの事は咎められなかった。
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