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追憶 2
以前、施設にいた頃の愛由に俺は言った。「お父様から性的虐待を受けた」と。けど正確には俺とお父様との間にあった出来事はこれだけで、これ以上のことは何もされてはいない。と言うか、この時だって俺は何もされていない。けれど、18になってお父様のパソコンを盗み見て、お父様の趣味──年端のいかない男の子をいたぶるのが好きだという性癖を知って、俺は即座にあの出来事を連想したのだ。あの時のお父様の挙動不審な態度。あれは、俺に手を出そうとしていたからではないのかと。違うかもしれない。いくらアブノーマルな性癖を持ち合わせていようと、流石に自分の息子をおかしな目で見たりはしないかもしれない。けど、そうかもしれないという可能性を感じてしまった時点で、俺の心は随分と萎えた。萎えたのに、傷付いたのに、それなのに……いや、だからこそお父様の秘密を暴かずにはいられなかった。
俺は片っ端からお父様の隠した動画を漁った。そうして、美しく可憐な愛由と出会ったのだ。
お父様は所謂美少年マニアだったから、他の動画の少年たちも皆整った顔形をしていた。その中でも愛由は別格の美しさだった。そんな特別に美しく可憐な少年が、お父様をはじめとした大人の男達の獰猛な性欲の餌食になっている姿は倒錯的で背徳的であまりにも官能的で、俺の心は一瞬にして奪われてしまった。ずっと考えていたあのメイド──真綾の事すら忘れられるくらい鮮烈に、俺は愛由に恋をした。それから毎日食い入るように愛由の動画を見た。愛由を見ていると、愛由の事を考えていると、真綾の事を忘れられたから。心の中全部を愛由で満たしてしまおうと思った。
俺はこの頃にはもう既に真綾の事を調べあげていた。つまり、真綾が俺の産みの母親だと知っていた。なぜ真綾が特別なメイドだったのか──「坊っちゃん」である俺に気安く話しかけても、勝手に食材を使って料理をしても咎められる事がなかったのか。そしてお父様のあの言葉の意味はなんだったのか。その答えは全てそこに集約されていた。
調べるにあたって使った手段は至って簡単だ。身長が伸び見た目も大人びてきて「坊っちゃん」を卒業して男としての魅力が備わった頃から、女達……特に大人の女達の俺を見る目が変わった。俺は古くからいる中年のメイドを手玉に取って、知っている事を全部喋らせたのだ。
───真綾はお父様の初恋の相手だったそうだ。けど、お父様には天城家に相応しい結婚相手が決められていたから、真綾とは結婚できなかった。それでもどうしても真綾を手放したくなかったお父様は、あろうことか真綾を住み込みのメイドとして傍に置いたのだ。それを真綾がどう思っていたのかは知る由もない。お父様との子供をこの邸で出産させられ、そのまま全て奪われて「天城家」の子供にされた事についても……。
真綾はどんな気持ちでメイドをしていて、どんな気持ちで俺の傍にいて、そしてどんな想いで俺を捨ててここを去って行ったのか……。真実を知ってからと言うもの、俺はそんな事ばかりをずっと考えていた。そして、俺に向かって「真綾」と呼んだ寂しそうなお父様の声を思い出しては腹立たしくなった。そんなに愛していたのなら、なぜ真綾をもっと大事にしなかったのか。真綾は他のメイドからは一目置かれて距離を取られ、お母様からは随分いびられていたらしい。俺は思うのだ。お父様の愛し方が中途半端だったせいで真綾は逃げ出したのだと。愛人として別宅で囲う事もできた筈なのにメイドとして傍に置くというある意味冷遇を決めたのなら、それなりに逃げられない為の手段が必要だったのだ。本妻に文句を言わせない工夫。本妻よりも誰よりも愛している事を分からせる工夫。そして究極には躾、脅迫、拘束、なんでもいいけど自分の元に確実に繋ぎ止めておく工夫が。愛していれば愛している程、大切であればある程、自分の元から離れない様に厳重に管理しなければならない。お父様が徹底して真綾を管理できていたなら、俺は真綾と──本当の母親と離れずに済んだのに。
俺はお父様の様なミスは絶対に犯さない。愛する者をずっと永遠に傍に置くためには手段を選ばない。一日に最低2回はセックスして愛を確かめ合い、何不自由ない暮らしを保証して大切にしている。逃げ出せない様な工夫だって身体的にも心理的にも徹底している。今は甘やかし優しくしているけれど、反抗的な態度が見られた時は以前のように恫喝や痛みで躾ける心積もりだって持ち合わせている。我ながら完璧な管理だ……。
「宗ちゃん、お母さんに会いたい……?」
俺の話に大袈裟に反応するでもなく、けどしっかり目と耳を傾けてくれていた愛由がぽつりとそう聞いてきた。愛由のこういう所が好きだ。大袈裟な同情も慰めも共感も要らない。だってどんなに言葉を尽くしても、俺の気持ちは俺以外には分かる筈もないのだから。
「別に。俺はね、愛由がいてくれたら他には何もいらないんだよ」
愛由が俺を見つめる瞳は凪いだ海の様に静かで穏やかで、強がりも本当の想いも全部見透かされる様な気がする。
「……けど、あのアップルパイだけはもう一度食べたいかな」
これ以上弱さを晒したくなくて冗談めかして言うと、愛由の瞳がふっと優しく細められた。
「宝物だね」
「え?」
「そのアップルパイの味も想い出も、宗ちゃんの宝物でしょ?」
宝物……。過去をそんな風に思った事はこれまでにただの一度もなかった。けど、愛由は断言した。
「宗ちゃんのお母さんは宗ちゃんに温かい思い出を残してくれた。宗ちゃんは愛されてたんだね」
───愛されてた……?
「真綾は俺を捨てたんだ。俺を愛してたんなら、俺を置いて行かないだろう。俺は愛されてなかった。誰にも、愛されてなかった……」
「そんなことないよ。きっと何か事情が、」
「事情?どんな事情だ?噂通り男と逃げるためか?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。けど、もしその噂が正しかったとしても、だからって宗ちゃんを愛してない訳じゃない」
「程度の問題だよ。俺の事は多少好きだったかもしれない。けど真綾にとって俺は一番じゃなかった。だから俺を切り捨てたんだ」
「……宗ちゃんのお母さんは自分の人生を生きたいって思っただけなんじゃないかな。幸せになりたいって思うのは、悪いことじゃないよね?」
「じゃあ愛由は俺に逆らってここを出ていくのか?」
「え……」
「手錠と首輪を外せば逃げ出すのか?」
愛由は俺の目を真っ直ぐに見据えて首を横に振った。
「なぜ?俺を愛しているから?」
愛由は何も答えない。
「土佐を守りたいから?」
愛由はまた何も言わなかった。けど、視線が落ちた。俺の目を見ていられなくなって。
「ほら、愛由は自分の人生を生きてないじゃないか。他人の為に自分を犠牲にして。それが本当の愛だろ?俺はそういう風に人から愛されたいんだ。愛由に、そういう風に愛して欲しいんだ……」
自分自身で、自分の胸にナイフを突き立てた。どうしてこうも、直視したくない事ばかりを自ら暴いてしまうのだろう。愛由を確実に捕らえ、激情に駆られる事なく愛由と穏やかに暮らして、以前よりも絶対的に幸せなのに、それなのに前は見えなかったものが見えてしまって苦しくなるのはどうしてなんだろう……。
愛由が自分を犠牲にできる程愛している相手はどうして土佐や由信なんだ。どうして俺じゃないんだ。一体何をすれば俺は愛由に愛して貰えるんだ。愛由が俺をそんな風に俺を愛してくれないから、監禁しないといけない。脅さないといけない。もしかしたら暴力だって必要になるかもしれない。俺はずっと全身全霊で叫んでいるのだ。お前の全てを俺に捧げてくれと。何を犠牲にしても俺を、俺だけを見ていて欲しいと……。
何も言わない愛由の後ろで、タイワンツバキの花が風に吹かれて頼りなく揺れている。椿という事は、この花も頭から落ちるのだろうか。縁起の悪い花は嫌いだ。いっそ全て切り倒して美しい薔薇に植え替えてしまおうか。……けど、そんな事をしたら愛由が悲しむ。愛由の悲しむ顔は、あまり見たくない。「目玉焼きみたい」と可笑しそうに笑っていた愛由を思い出す。愛おしい。俺はその笑顔を見ていたい。ずっと、ずっと。その為に切り倒さなければならないものはもっと他にある──。
「お父様、ボディーガードをつけて下さったのは有り難いのですが、あの男諦める気配がありません。やはり僕が前話した、」
『そろそろ潮時かもしれないな』
俺が今最も排除したいものの対処についてお父様に電話を入れると、お父様は俺の言葉を遮って呟いた。
「潮時……?」
『愛由のことだ』
「何をおっしゃっているのか分かりません。潮時も何も、僕は愛由を一生傍に置くと決めたんです。お父様も納得してくれたんじゃなかったんですか?」
『知らなかったからだ。愛由に厄介な虫がついている事が分かっていたら、手を引くように言った』
「厄介な虫って土佐の事ですか?あんなの厄介でも何でもありませんよ。僕に任せてください。前にも言った様に車に細工をして消してみせますから。もう準備は整っています。警察には『事故』という事で片付けて貰えばいいだけなんですから簡単な事ですよ。だからお祖父様に話を、」
言っている途中、電話口の向こうから無視できないくらい大きな溜め息が聞こえてきた。
『宗佑、弁えなさい。それは駄目だと前にも言っただろう』
「どうしてです?どうして駄目なんですか?」
『どうしても何もない。よく考えなさい。あんまり思い上がるんじゃないぞ』
ピシャリとそう言われ、俺は言葉を失った。なぜいけないのか。なぜお父様はお力を貸してくださらないのか。全然分からない。けど───。
「思い上がるな」この一言は重かった。俺が思い上がっている?もしそれが正しければ、俺が出来ると信じて疑わない事が本当は出来ないという事なのか。その不安を裏付ける様に思い出したのは、お父様が土佐をすぐに釈放させたことだ。あそこで経歴に大きな傷でもつけておけば、もう愛由に近付きたくないと思わせる事だって出来たかもしれないのに……。
俺は思い上がっていただけなのか……?言い知れぬ不安が襲う。けど、そんな筈ないと思う。愛由を冤罪に仕立て上げた時の事を思い出せば、俺の権力は本物だった。あれからお祖父様の地位だって変わっていないし、お父様は歳を経る毎に力をつけてきている。俺だって若きエリートとして一目置かれる存在として持て囃されていて、怖いもの等何もない。───ただひとつ、愛由を失う事だけが怖かったけれど、それも今は解決済みだ。愛由はここから出られない。身体も心も、ここにしっかり縛り付けているのだから。
夜の営みを終えて、いつもの様に気絶するように眠ってしまった愛由の腕に念のため手錠を装着してから邸を出た。俺を煩わす不快な害虫をこの世から消すために。お父様が何を臆病風に吹かれているのか知らないが、歯車を回してしまえば否応なく巻き込まれるだろう。天城の地位と名誉を守るため、お父様は全力で俺を守ってくださる筈だ。
仕掛けるのは時限爆弾の様なトラップ。それがいつ作動するかはブレーキの踏み方や運転の仕方次第だがそう時間はかからないだろうし、ある程度スピードが出ている時に作動するような仕組みになっているから……結果は俺の望む通りのものになるだろう。
───命まで奪うのは俺も本意ではなかったけど、愛由に愛された罰を受けて貰う。俺が欲して止まないものをお前は易々と手に入れた。そんなお前が俺達の周りを彷徨くのは、俺にとって耐えがたい苦痛なんだ。けど安心していい。愛由にはお前が消えてしまった事はずっと黙っているから。愛由は悲しむ事もなく、お前の幸せを願いながら一生俺に繋がれるんだ。愛由にそれだけ想われるんなら、例え死んだって幸せだろう?俺は羨ましいよ。心底お前が羨ましい───。
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