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タイワンツバキ

タイワンツバキが、窓の向こうで今日も可愛い花を咲かせている。2日前まで蕾だった花が今朝ひとつ開花した。生まれたての花弁は眩い程の純白で、真ん中のおしべの黄色にはくすみひとつなくてとっても綺麗だ。草木を愛でる趣味はこれまでなかったけれど、窓の向こうで咲き誇るタイワンツバキは本当に愛らしい。時おり蜂や蝶が蜜を飲みにやって来るとタイワンツバキの花が喜んでいる様に見えて、柄にもなく「またおいで」なんて事を呟いたりもしている。 「愛由」 傍らの機械から声がした。そろそろかなと思っていた頃だ。 「宗ちゃん、午前中のお仕事お疲れ様」 機械を持ち上げカメラに顔を向ける。 「ふふ、愛由の顔を見ると疲れが飛んでいくよ。お昼は食べた?」 「うん、さっき食べたよ。今日も美味しかった。ご馳走さま」 「何が一番美味しかった?」 「どれも美味しかったけど、薄いパンに野菜がいっぱい入ってるやつ……」 名前は何だったかなと考えていたら、宗ちゃんのクスクス笑う声が聞こえてきた。 「ラップサンドね。薄いパンはトルティーヤだよ」 「うん、それ。それが美味しかった」 「それはよかった。いつもよりマスタード効かせてみたけど辛くなかった?」 「ちょっと鼻がツンてなったけど、それも美味しかったよ」 「そう。愛由の舌がまた少し大人になったんだね」 宗ちゃんがクスクスと朗らかに笑う声が聞こえてくる。 宗ちゃんは優しい。セックスの時は乱暴になることもあるしお仕置きの時間もあったりするから、毎日沢山しなきゃいけないのは気が重いけど、それ以外では本当に優しいのだ。多分別荘からここに戻ってきてからずっとそう。 多分と言うのは、ここに閉じ込められる様になってからの記憶が少し曖昧だからだ。ここ最近の事はちゃんと覚えているけど、それ以前の出来事は途切れ途切れでしか覚えていなくて、連続した記憶がない。だからここに来てから一体どれくらい日にちが経ったのかも曖昧だ。記憶が繋がって頭がはっきりし出したのは宗ちゃんが窓の外を見られる様にしてくれてからだから、まだ一週間にも満たない。 何日か前の日曜日には庭にも出して貰えて、外の新鮮な空気に触れられたのは本当に嬉しかった。あんまり嬉しくて訳も分からず楽しくてはしゃぎ過ぎて、俺は宗ちゃんに要らない事を聞いてしまったのかもしれない。宗ちゃんの過去の話だ。宗ちゃんは実の母親に捨てられたと感じているみたいで、別に会いたくない、なんて言いながらとても寂しそうな顔をしていた。宗ちゃんは愛が欲しいと言った。全てを擲って愛して欲しいと。けど、俺は───。 「またあの花を見てるの?」 宗ちゃんとの会話が途切れた後、何気なく窓の外に目をやっていた。この部屋にいる時間の大半、俺は窓の外を眺めていると思う。 「さっきも見てたでしょ?」 さっきとは、このモニターで宗ちゃんから話しかけられる前の事を言ってるのだろう。この部屋の中は監視カメラとこの小型のカメラに四六時中見張られてるから、俺が何をして何を見ているのかさえも正に筒抜けだ。 「新しい花が咲いたんだ。真っ白で凄く綺麗だよ」 昨日はこの部屋の清掃の日だったから、朝早くから暗くなるまでずっと窓の閉ざされた2階の部屋にいた。一日見れないだけでも寂しいと思うくらい、俺はこの樹を愛でている。 「愛由は花が好きなんだね」 「自分でも今まで知らなかったけどね」 「そうなんだ。じゃあ、花は俺の影響で好きになったって事?」 宗ちゃんの影響……?まあ、平たく言えばそういう事なのかな。 「そうだね」 「よし、その窓の外をもっと花でいっぱいにしてあげる。もっと綺麗な花を沢山植えよう」 「俺はこの花だけで充分だよ」 「そうだ、黒薔薇を植えよう。黒真珠とブラックバカラを。ああそうだ、窓を開けたら薫りも楽しめる様に、薫りの強い品種も植えなくちゃね。パパメイアンあたりはどうだろう。黒薔薇の見頃が終わる前に急がないと。早速庭師に掛け合うよ。次の清掃の日に工事ができる様に手配するから」 プツンと向こうからの音が途切れた。宗ちゃんとの通信が切れたのだ。モニターを台に戻してから、知らぬ内に胸を撫で下ろす様に息をついていた。 俺は本当にタイワンツバキだけで充分だし、寧ろ土を掘り起こしてタイワンツバキの根っこに傷がついたりしないか不安なぐらいだ。けど、宗ちゃんがそうしたいなら仕方ない。俺は宗ちゃんに意見できる立場じゃないのだ。一日中ただただこの部屋にいて衣食住の全てを宗ちゃんに依存してる状態の俺は、生きるも死ぬも宗ちゃん次第だ。もしも宗ちゃんが「もう飽きた」って言ってここに帰って来なくなったら、俺は生きられない。そこまでいかなくても、宗ちゃんの機嫌を損ねる様な生意気な事を言って宗ちゃんを怒らせたら、また前みたいに殴られる様になるかもしれないし、ご飯抜きとかにされるかもしれない。宗ちゃんが優しくなくなったら、窓だってまた閉じられてしまうかもしれないし、「また連れて来てあげるよ」って言ってた庭にだって、もう出して貰えなくかるかもしれない。 外に出れなくなったら。窓から外を眺める事すらできなくなったら。俺は今度こそ完全な廃人になってしまいそうな気がする。日が上り、また沈む。それが見れるだけで気分は雲泥の差だ。その上タイワンツバキが可愛い花を咲かせて俺の目を癒してくれるし、暗くなってからは星達が輝き心を慰めてくれる。夜遅くまで苛まれた後には、南の空高くに上ったシリウスが優しく俺を見下ろしてくれる。それらが奪われる事が、今は一番怖い。 生きることは辛い事だ。 ずっとそうだったけど、苦しい中に時々ご褒美があって、俺にとってそれは学校の給食やコンビニのおにぎり、そして夜空を彩る星だった。今は空腹に喘ぐことはないし、星は昔と変わらず瞬いている。タイワンツバキだって傍にいてくれる。こんな恵まれた環境にいて、苦しいだの辛いだのと思うのはあまりに贅沢だ。閉じ込められて息苦しいとか、縛られて窮屈だとか、セックスが負担だとか、そんなのは全部俺の我が儘なのだ。宗ちゃんは殴らず怒鳴らず優しくしてくれてる。それだけで満足するべきだ。 だから、高校3年間の、あの辛い事が少しもなかった時の事は、もう忘れなきゃならない。あれは、神様がくれた俺の人生で一番のご褒美だったんだから。あんな楽しい時間は、もう二度と俺に訪れない。だからあの時と今を比べるのはもう止めないと。そんな事よりも、もっと前の悲惨だった時の自分と比べて今がどれだけ恵まれているかに目を向けるべきなのだ。 大丈夫、あの3年間の事はきっとすぐに忘れられる。だって、忘れたくないと思っていた土佐の最後の声だって、もう思い出せなくなりつつある。目を瞑ってみても、どんなに記憶を探ってみてもあの声が再生されない。もう少し低かったっけ?いや、もう少し優しい感じだったんじゃないかな。そんな風に頭の中で試行錯誤している内に、土佐の声がどんどん行方不明になってしまう……。 ───忘れるべきだと思いながら必死に思い出そうとしている姿は何とも滑稽だ。 「お前もそう思う?」 ベッドから下りて、窓の向こうで気持ち良さそうに花を咲かせているタイワンツバキに話しかけた。タイミングよく風が吹いたのか、枝葉も花も一斉に横に揺れた。まるで「違う」って言うみたいに。 「お前は優しいね」 滑稽と言うなら、こうして花に話しかけ、自分に都合のいい解釈をしている姿こそが正にそれだろう。思わず苦笑しかけた時、ザッと突然異質なものが目に映った。窓の向こう側、話しかけていたタイワンツバキを遮るように目の前に現れたのは、人影。驚き過ぎて胸の鼓動がおかしなリズムを叩く。幻覚が見えるなんて、俺はとうとういかれてしまったのだろうか。宗ちゃんは時々変なクスリを使ってくるし、あの別荘でも毎日変なものを使われていた。その副作用が今ごろ現れたのかな……。だってあり得ない。ここに、土佐がいるなんて。

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