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抱き締めたい 4
ずっと見続けていたスチール製のドアのドアノブの所についている小さなランプの赤色が点滅した。あ、と思うと同時にカチャンと鍵の回る音がして、ドアが動いた。
「明日、薔薇が来るよ」
帰ってきた宗ちゃんは片手でネクタイを緩めながら言うと、ぼすんとベッドに腰を下ろした。
「薔薇?」
「ほら昼間話したでしょ?窓の外に植える黒薔薇のこと」
そうだった。宗ちゃんとそこの機械で話した後に土佐がやってきて、今日はいつになく長い一日だったし、普段使わない頭や感情もフル稼働で……宗ちゃんと話した薔薇の話が遠い過去の事の様だ。
「だから明日は2階の部屋ね」
言いながら宗ちゃんがポケットから小さな鍵を取り出す。
「おいで」
ぽんぽんと膝を叩いて呼ばれたから、俺はいつも通り宗ちゃんの膝の上に跨がって座った。向かい合わせになった俺の手錠に、宗ちゃんが手をかける。
いつも通りに振る舞うこと。俺はそれを今何よりも意識している。土佐が帰って、宗ちゃんがここに帰って来るまでの間も、ずっとずっと言い聞かせてきたのだ。宗ちゃんに動揺を見せてはいけない。ほんの少しでも疑いを持たれる様な行動を取ってはいけない。いつも通りの俺でいないと。宗ちゃんに怪しまれて、監視カメラをチェックされたら終わりなのだ。だから、絶対ミスは許されない。
「ありがとう」
手錠を外してくれた宗ちゃんに言う。いつも、言ってた筈だ。
宗ちゃんは微笑んでちゅっとキスをしてきた。
「今日はご飯の前にエッチしたい気分。アリスの衣装がいいな」
軽いキスを繰り返しながら宗ちゃんが言う。俺は分かったと頷いて着替えに行こうと腰を上げた。けど、宗ちゃんの手が背中に回ってそれを阻止する。不思議に思って宗ちゃんの顔を見ると、宗ちゃんはいたずらっ子みたいに笑っていた。目が合うが否やさっきよりも深いキスを仕掛けられる。俺は宗ちゃんに密着するように座り直して、いつもそうしてる様に宗ちゃんの首に腕を回してキスに応じた。
「ん……んん……」
どんどん本格的になっていく長いキスに、少し息苦しさを覚え始めた時、漸く宗ちゃんの唇が離れた。今度こそ着替えに行かないとって思ってるのに、宗ちゃんの腕はまだ背中に回ったまま。そうしてまじまじと俺の顔を見ている。
「どうしたの?」
俺は内心ビクビクしながらも平然を装って宗ちゃんに尋ねる。
「今日はいつもより積極的だなって思って」
背中に氷を落とされたみたいにゾワッとした。いつも通りにしてるつもりだったけど、微妙に違ったのだろうか。どうしよう、どうしよう…………。
「そんな顔しないで」
おそらく引きつった顔を隠せていないだろう俺に、宗ちゃんは少し困った様に微笑んだ。
「嬉しくて言ってるんだよ?」
また、口付けが再開した。
……嬉しいって事はこのやり方が気に入ったって事で、いつも通りか否かは置いておいても怪しまれていた訳ではなかった様だ。それが分かって心底ほっとして、宗ちゃんの首に再び腕を絡めた。
「ひゃ……っ」
身体がぴくんと跳ねる。更に深くなるキスにちゃんと積極的に応じる事に必死だった俺の下腹部を、宗ちゃんがいきなり撫でたから。
「キスだけでこんなにしちゃって、愛由のえっち。俺とのキスはそんなに気持ちいい?」
宗ちゃんとする、触れるだけの優しいキスは嫌いではない。けど、さっきみたいな深くて激しいキスは、あまり好きじゃない。これから苦痛も伴うセックスが始まる事を示唆する行為だからだ。けど、心は嫌でも身体はそうじゃない。キスをされただけで身体は熱くなる。いつからか覚えてないくらい前から、俺はそういう風になっている。心と身体があまりにチグハグで、考え過ぎると胸が張り裂けそうになるから、あんまり考えたくない。
「うん、気持ちいい……」
はぁ、と熱い吐息で誤魔化す様にして溜め息をつく。見上げた宗ちゃんの顔は満足そうで、深い笑みが刻まれている。
「着替えてきて」
囁かれると同時に背中の手が緩んで、首輪からリードだけが外される。何にも繋がれてない俺は、それでも走り出したりドアに飛び付いたりはしない。無意味だし、逃げたいとも思わない。着替えのある所へ真っ直ぐ向かって、もうすっかり着方を覚えた衣装を身に纏う。
───気持ちを押し殺すな?素直に心の声を聞け?諦めるな?そんなの理想論だ。全部、理想論でしかない。だって今俺が自分の心に従ったら?宗ちゃんに「セックスはもうしたくない。恥ずかしいコスプレももう沢山」なんて言ったらどうなる。何かあった事を疑われてしまい兼ねないし、そうでなくても、宗ちゃんの俺への扱いは格段に悪くなるだろう。まず、即座に殴られるのだろうし、窓はまた閉ざされるだろう。庭に出して貰う事なんて到底望めなくなるし、食事だってまともにくれなくなるかもしれない。俺のしている我慢は、諦めは、妥協は、そういう物の上に成り立っている。どんなに辛くても、苦しくても、誰も助けてくれなかった。けど、それでも俺が壊れずにいられたのは、俺が俺の回りにいた人間に何の期待もしていなかったからだ。希望を持っていなかったおかげで、必要以上に傷付かずに済んだ。自分が救われるのは、いつか死んで星になった時。そう思っていたから。
折角、全て諦めて宗ちゃんと生きることに折り合いを付けよう。そう思い始めてきた頃だったのに。その方が楽だったのに、どうして土佐はこのタイミングで……。
イライラする。心がザワつく。ここ最近、ずっと心は凪いでいたのに。求められるがままに股を広げなきゃいけない屈辱にも目を瞑れる様になったし、過ぎた快楽による苦痛だって我慢して乗り切る術を身に付けた。そうして、宗ちゃんがくれるご褒美に素直に心を踊らせられるくらい穏やかな心を、漸く手に入れたところだったのに───。
どうせ手には入らないものは、見ない方がいい。希望は毒だ。期待は俺の身を滅ぼす。
「相変わらず可愛いなあ……。髪の毛大分伸びてきたから、今度愛由に似合いそうなリボンを買ってきてあげる」
指定通りの衣装に身を包んだ俺を迎えた宗ちゃんは、まず元通りに俺の首輪にリードを付けて、それからもう珍しくもなんともない俺のこの姿をまじまじと眺めてそう言った。
リボンなんて俺に似合う筈がない。そもそもこの格好がおかしいのだ。何で用意するもの全部、女物なんだ。こういうのが好きなら、普通に女にこういう格好をさせればいいのに。何で俺なんだ。なんでどいつもこいつも、俺の男の部分を貶めるんだ。
忘れていた感情、鎮めていた苛立ち、腑に落ちない思いが大挙して押し寄せてくる。こんな気持ちは忘れてしまっていた方がよかったのに。自分の男としての矜持すら、手放す覚悟はとうについていた筈なのに………。
「愛由、どうしたの?」
宗ちゃんが、俯き黙り込んだ俺の顔を覗き込んでくる。
この心の内は、絶対に知られてはいけない。俺は、いつも通りの従順な愛由でいなければならない。心の声に耳を塞いで、感情を押し殺して、プライドを捨てて……。
「アイスクリーム……」
「え?」
「リボンよりも、アイスクリームの方が嬉しいな」
顔を上げて、宗ちゃんの目を見て言う。こんな我が儘、昔の宗ちゃんに言ってたら殴られただろう。けど、最近の宗ちゃんは俺に甘えられたがっている様な節がある。きっと大丈夫。怒らせない、ギリギリのラインの筈。
「その顔は反則だよ」
案の定、怒られなかった。予想してた返答とは大分違うけど。
「そんな顔されたら、どんな願いだって叶えてあげたくなる」
感心した様に宗ちゃんがそう続けた。
「そんな顔って?」
宗ちゃんが感心してどんな願いも叶えたくなる顔っていうのがどんなものなのか、知りたかった。
「笑ったでしょ?にこって」
笑った……?
「愛由の笑顔は可愛いよ。凄く、ね」
宗ちゃんの手が肩から脇腹を通り、するりとスカートの中に入ってきた。何も履いてない尻を撫でられながら顎を持ち上げられ、唇が下りてくる。
やがて敏感な所に侵入してきた宗ちゃんの指に翻弄されながら、それでも頭の隅っこの方で考えていた。俺は笑ったのだろうか。………笑ったのかもしれない。不安で怖かったから。だから、土佐を真似て唇の端を上げてみたんだ。自分を、奮い立たせる為に───。
全てが終わってふと空を見上げると、南の空高くでシリウスが輝いていた。土佐も見てるかな……。
夜に俺が何をされてるのか、あいつはもう全部知ってる。それでもまだあいつは俺を好きなんだろうか。それとも、友達としての情で俺を救いたいと言っているんだろうか……。
少し考えてみて、馬鹿馬鹿しいと思った。どっちだって関係ない。どっちにしろ、あいつの願いを叶える事は俺にはできないんだから。もう一度、シリウスを見上げる。「忘れないで欲しい」って土佐の声が聞こえる様だ。
忘れないよ。忘れられるもんか。忘れられないから、必死に忘れようとしていたんだから。覚えているよ、お前のこと。お前が忘れても、ずっと覚えているよ。俺がどんなにここから出たくても、お前がどれだけ助け出したいと思っても、その願いは絶対に叶えられない。だから……お前を苦しめる分だけ、俺も一緒に苦しむよ。苦しまなきゃいけないよな。けど、諦める事は、悪じゃない。俺にとっては生きる為に必要だったし、今は土佐にだって。どうか、それを理解して欲しい。
昼間、言葉を尽くせずに土佐を止めきれなかった事を今更後悔してももう遅い。土佐は要領のいい奴だ。暫く車には乗らないと約束してくれたし、なるべく一人にもならないと言った。土佐は、本人が言うようにそう簡単に宗ちゃんにやり込められる奴ではないとは思う。けど、それ以上に宗ちゃんは危険だ。自分の欲求を通すためには手段を選ばない。常識では考えられない様な事を、俺には想像すらつかない様な事を平気でやる。
───何も怖いことが起こりません様に……。
閉じ込められて動けない俺には、これまで通りいい子を演じていることしか出来ない。
魂だけでもここから抜け出せるなら、背後霊みたいにずっと土佐の身体を抱き締めて、どんな悪意からも攻撃からも守ってやりたい。守られたいんじゃなくて守りたいのは、俺だって同じなんだよ。
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