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ストックホルム症候群 1

俺は大事にされてる。宗ちゃんは優しい。 およそ週一のペースでしてる窓越しの面会。及川は毎回判で押したみたいに帰れだのもう来るなと言う他に、必ずそう言う。曇りのない瞳を真っ直ぐ俺に向けて───。 喫茶店での定例会。初めはシャリちゃんと二人だけだったのが、今では男が二人増えての4人だ。天城のせいで男に対して恐怖心があるらしいシャリちゃんは、最初可哀想なくらい萎縮していたけど大分慣れてきたらしく、目の前に座るナンパな男のあしらい方も堂に入っている。 「今日もシャリちゃんは可愛いなぁ。ね、ね、そろそろ連絡先教えてくれる気になった?」 「ごめんなさい、デンワもってません」 「いやいや、弄りながら言う?」 シャリちゃんに正にマニュアル通りの断られ方をされて苦笑しているのは、あちらのスパイをやっていた岩崎だ。及川が大学に来なくなって多少なりとも責任を感じたのか、こいつの方から俺に近づいてきた。初めは罠かと思った。けど、演技では無理だろうくらい憔悴して見えたし、及川に対してはこいつなりに同情心があったことも、話していて伝わってきた。それと同じくらい下心もあったせいで、ヤケを起こして天城に協力する形になってしまった様だったが。 こいつが話している事が全部真実だとしても、まさか、こいつを仲間にしようなんて思ってなかった。及川に対して下心を持っているのは変わりないのだろうし、狡猾な天城に「及川」を褒美に散らつかされたりしたら、簡単にあっちに寝返りそうだし。 それでもこうして数少ない全ての事情を知る仲間になったのは、こいつが有益な情報を持っていたからだ。それを知った時は、正直かなり驚いた。まさかよっしーの彼女の美咲さんが一番のあいつのスパイだったなんて、これまで思いもよらなかったからだ。だってそうだろう。ぽっと出じゃないんだから。高1の時からよっしーは美咲さんと付き合ってて、もう3年になる。そんな、3年も自分の身を削ってスパイやるとか特殊部隊かよって。それに、そんな前から及川を密に見張らせてた天城には、相変わらず恐ろしい程の執念を感じさせられた。 岩崎は言う。美咲さんは恋心を利用されているのだと。天城の事が好きだから、3年もスパイをやっているのだと。それが憐れだと岩崎は言うけど、俺は正直美咲さんの事はどうでもいい。可哀想なのは、悲惨なのは、3年間も騙されていたよっしーの方だろう。 ずっと騙され続け、挙げ句及川との縁も自ら切るように仕向けられたよっしーが、この残酷な真実を知った時どう思うのか、どれだけ傷付くのか……。それを思うと心が痛かった。よっしーの事だけを思うなら、知らない方が幸せかもしれない。及川を完全に手に入れた(と思っている)天城にとって、よっしーへのスパイはもう必要ない頃だろうと思うからだ。だから、よっしーが真実を知ろうと知るまいと、二人の破局は近いだろう。普通の失恋で終わらせてやりたい。そんな気持ちが全くない訳ではないけど、よっしーの心の傷に配慮する事よりも、申し訳ないけど俺は及川を救いたいのだ。残されている時間は、多分少ない。及川が取り返しのつかない状態になる前に、ともかく早く。 「え、何?どういう事?」 よっしーがバンビの様に大きな目を不安そうに揺らしている。話があると言って呼び出したのだけど、俺以外もいるとは伝えていなかった。男3人に、知らない外国人の女の子一人の視線が一斉に注がれれば、よっしーでなくてもビビるだろう。 「まーまー座れよ由信」 俺が何か言う前に岩崎がよっしーの肩に手を置いて椅子へ誘導した。気弱なクラスメイトに絡む不良そのものの動きと態度と口調に見えて、改めて思った。よっしーと岩崎って絶対気合わないだろうなって。 「よっしー、この子はシャリちゃん。で、こっちは知ってるよな?」 「本田な。ええと……」 本ちゃんは多分よっしーをどう呼ぶか悩んでる。「及川」だとあの及川と被るし、いきなりでよっしーは馴れ馴れしいかな、とか。 「よっしーでいいよ。よろしく、本田くん」 本ちゃんの心情を察してか、よっしーが言った。ビクビクしてると思っていたよっしーは、意外にも落ち着いていた。 「おう、よっしー、よろしくな」 本ちゃんに頷くと、よっしーは俺に顔を向けた。 「話って、あゆ君の事?」 「なんだ、察しがいいなぁ由信」 岩崎が大袈裟に驚いた声を出した。けど、察しが良くなくても分かる筈だ。 「ぼっちの俺の耳にも入るくらい騒ぎになってるからね」 及川について悪い噂を流した天城のやり方に倣って、俺は真実を流布した。けど、その真実の噂が、俺の意図しない広がり方をしている。まさかここまでになるなんて思っていなかった。天城も目立つ男だったし、及川もそうだったんだから、予想しておくべきだった。みんな、及川を遠巻きにしておきながら、美しい及川に対して興味があったのだ。だからこそ、天城の流した噂もすぐに広まったのだ。その辺りの認識が、俺は甘かった。 大学内に天城のファンクラブとでも言うのだろうか。あいつの勤める病院にまで追っかけするくらいのあいつのファンが何人かいる事は知っていた。そういう奴らが、学外の、天城の勤め先にまで噂を広げてくれたらな、という期待まではあった。そうしてほんの少し騒ぎになって、ちょっと常識のありそうな天城の父親の耳にまで伝われば、これ以上及川の事は手に負えないと思わせる事ができるかも……というのが、俺の意図した所だったのだけど………。 ──それは一旦置いておいて、及川は天城が警察を自在に操れると思ってるみたいだけど、俺はどうもそうじゃないと思うのだ。もしかしたら及川に対してはそうだったのかもしれないけど、俺に対してはそうじゃないんじゃないかと。それは、薬物の件で何のお咎めもなかった事もそうだけど、毎日の様に天城に付き纏ってみても、一度も警察を呼ばれた事がないのも。途中から屈強なボディガードを雇ったみたいであいつの傍に寄ることもできなくなったけど、警察を操れるならそっちを使ってどうにかした方が俺のダメージにも繋がるっていうのに、天城はそれをしなかった。警察に太いコネがあることは確かだろう。けど、自在に操れるのとは何となく違う様な気がするのだ。 俺と及川、何が違うのか。考えて考えて出した結論は、「後ろ楯」があるかないかという事だ。及川は天涯孤独だ。母親はこの世に存在しているかもだけど、自分の息子を虐待し、挙げ句汚ない大人たちに差し出してたクズだ。そんなのはいない方がマシなレベルだ。 俺は思う。天城が及川の事を徹底的にハメられたのは、及川が天涯孤独だからなんじゃないかって。及川に罪を被せても、文句を言うのは及川ただひとりだった。命をかけて及川を守るって人間が、誰ひとりいなかった。だから及川はやり込められてしまったのではないかと。 だったら、俺が「後ろ楯」を作ってやろうと思った。俺自身がそうだって事は天城にも充分伝わってるとは思うけど、俺の存在だけで足りないのなら、大学の世論を味方につけてやろうと。幸い、ミスターになったお陰もあって顔は広い。信用もそこそこ。友人、知り合い、慕ってくれる子たち。俺が真面目な顔して「及川が心配だ」と言えば、みんな茶化したり嫌な顔もせずにちゃんと話を聞いてくれた。思った。俺が本気で及川の酷い噂を消そうと思えば、もしかしたら消せていたのかもしれないなって。まあ、及川自身がそれを望んではいなかったし、俺も及川を独占していたいって気持ちが潜在的にあったから、わざわざしなかったのだけど。 そんなこんなであっと言う間に噂が流れた結果、及川にはかなりの同情が集まった。噂の内容は「真実」な訳だから当然だろう。正直、及川の名誉を考えて、そんな噂流してもいいものかかなり悩んだ。嘘の噂にした方がいいんじゃないか。こう、せめて痴情の縺れみたいなニュアンスだけでも省いた方がいいんじゃないかって。けど、本ちゃんも岩崎も、真実じゃなきゃだめだと言い切った。紛い物にはいつか必ず綻びが生じる。最終的にこちら側が警察を利用する時にも、嘘の噂じゃ話にならないだろうと。確かにそうだった。この作戦で後ろ楯を得た後は、その声に後押しさせてこっちが警察使って及川を救出させるつもりなのだ。俺に手を出せない理由が「後ろ楯」なら、動かざるを得ない筈だ。天城本人は兎も角、天城の父親は大きな騒ぎにしたがらないだろうから、そこまでいく前に及川が帰ってくる可能性もあると思ってはいるけど。 こんな方法しか思い付かなくて、及川の名誉を傷付ける事になってしまったのは心苦しい。けど、これは甘えだろうか。及川ならあんまり気にしないんじゃないかと思う自分もいるのだ。クスリだのヤクザだのって酷い噂をもう何年間も流されていたけど、及川は全然気にしてる素振りはなかった。強がりとかでもなく、及川はそういう奴だと思う。友達100人できるかなってタイプでは間違ってもないし、寧ろ、自ら遠ざけなくても、興味のない人間に一定の距離を取って貰えてありがたいぐらいに思っていそうだ。けど、そんな及川でも俺やよっしーにだけは知られたくなかったんだと思う。自殺しそうになるとこまで隠し通してたくらいだから、それはもう殆ど確信だ。俺たちを巻き込みたくないって気持ちもあっただろうけど、暴力を振るわれ言いなりにさせられてるって事実が俺やよっしーの目にどう写るかって事も気にしていたんだと思う。他人に興味感心がない分、自分が心を許した相手からどう見られるかという事は、人一倍気になっていたかもしれない。だって及川には、本当に俺とよっしーしかいないから………。 及川の深い孤独を目の当たりにすると、毎回ぶるっと身震いしそうな程怖くなる。どこまでも続く深淵に吸い込まれそうで──。こんな真っ暗な中を、及川は星の輝きなんていうほんの些細なものだけを頼りに生きてきた。強い奴だと思う。俺ならとっくの昔に闇に飲まれてしまっただろう。あの華奢でガラス細工みたいに繊細な見た目とは真逆の強靭な精神力を、及川は内に秘めている。 よっしーを傷付けても、そして、及川のよっしーには知られたくないって気持ちを無視してでも俺が救出を急いでいるのは、そんな及川がついに壊れそうだからだ。これまでどんな時でも正しく物事を見れていたであろう及川が、首輪と手錠に繋がれながら「酷い事なんかされてない」と言う。セックスが嫌だと言いながら、「好きになるかもしれない」と言う。言わされてるんじゃなく、及川が及川自身の言葉でそう言っているのだ。初めはその言葉を鵜呑みにしてともかく腹が立ったし嫉妬もした。けど、よくよく考えると変だと思った。死にたくなる程追い込まれた相手だぞと。あいつが玄関に来ただけで布団被ってブルブル震えてた及川とあまりに解離してないかと。だから、及川は俺を関わらせたくなくて、わざとうんざりさせる様な事を言ってんのか?って思った。勿論、それもあるだろう。及川が俺を守ろうとしてくれてるのは、会話の端々から伝わってくる。けど、多分それだけじゃない。 たった一度だけ、及川が苦しいと言った事がある。「お前が来ると苦しくなる。胸がざわついてイライラする」って。俺に会って苦しいのは、現状の辛さを見て見ぬふりをしてるからに他ならない。思わずそれをその場で指摘してしまったせいで、及川はそれ以降俺に弱音を吐いてくれなくなった。その代わり、真っ直ぐな目をして「俺は平気だ」と言う。その、疑いを知らない子供みたいな目が、俺を焦らせている。

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