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ストックホルム症候群 2
「これ、居酒屋の服でしょ?あゆ君凄く似合ってるね。一度お店で見てみたかったな」
よっしーが差し出したスマホの画面に映っているのは、SNSですっかり出回ってしまった及川の写真だ。俺が意図しなかったのは、これだ。及川のプライベートな写真なんて、俺やよっしー以外誰も持っていないと思っていたのに……。
白Tシャツに濃紺の長い前掛けを巻いて、片付けの途中なのか空のジョッキをいくつか握っている姿をほぼ正面から写したものだ。誰かに呼ばれたのか、目線と顔の向きは少し斜めを向いていてカメラ目線ではない。及川が、友人でもない相手からの写真撮らせてって要求に頷くとも思えないから、恐らく隠し撮り。それでも遠くからズームしてって感じじゃなく、割と近い距離から撮られている。胸元についている「愛由」と書かれた名札までバッチリ判別できるくらい鮮明だ。
及川は隠し撮りだろうが何だろうが絵になるから困る。この写真も軽くバズってしまうのが頷けるくらい、凄くニュアンスがあるのだ。居酒屋の暖色系の照明は及川の表情をいつもより柔らかく見せているし、加工してるんじゃないかと疑われる程の相変わらずの美貌だ。目線の先に誰がいるんだろうとか、この青年は何を考えているんだろうとか、あの頃ずっと傍にいて、居酒屋でも一緒に働いていた俺ですら想像したくなる程、よく出来た写真だ。出元は居酒屋の常連客の佐藤さんのものであろうアカウントだった。『この子が行方不明です。ストーカーに連れ去られたという噂もあります。情報求』そんな一言が添えられたツイートは瞬く間に広がった。俺や本ちゃんが気付いた時にはもう大火事になっていて、止める術がなかった。
人の噂も七十五日って諺があるけど、口伝の噂っていうのは火元が消えてしまえば確かにその程度で収まると思う。けど、これはどうしようもない。一度出回ってしまった写真は回収不可能だし、一度炎上した事柄は油を注がなくてもずっと形としてそこに残る。風化してくれないのだ。俺の一番の誤算はこれだ。ここまでの騒ぎは望んでいなかった。甘かったのだ。及川にどれだけ魅力があるのか知らない訳じゃなかったのに、油を注ぐ量を間違えてしまったのだ。
及川、噂は気にしないにしても、不特定多数に自分の写真が出回ってるのはきっと嫌がるだろうな……。許してくれるかな……。
「この噂、デマだよ?」
ことりとスマホをテーブルに置いたよっしーが、えらく淡々とした口調で言った。
「何でデマだと思う?」
岩崎が片方の唇の端を持ち上げて言う。
「だって俺、お父さんに聞いて確かめたから。知らなかったよ。あゆ君男の人と……天城先生と付き合ってたんだね。あゆ君は行方不明なんかじゃなくて、彼氏と一緒にいるって聞いたよ。ストーカーなんて変な噂流されて、天城先生可哀想」
「カワイソウか。けっ、ぜーんぶ本当の事知った後も、由信くんはそう言っていられるんですかね?」
岩崎がドスを効かせて悪態をついたせいで、気丈に振る舞っていたよっしーの目が泳ぐ。
「い、岩崎くん、何?どういう意味なの?」
よっしーは岩崎くん、と言いながら隣の岩崎を見ずに俺に目を向けてきた。助けて土佐って心の声が聞こえてくる様だけど、ごめん、俺もちょっとムカついてる。よっしーが萱の外になっていたのは、あいつが及川から遠ざけようと仕組んでたせいであって、俺や及川も敢えて巻き込まなかったせいでもある。けど、それでも、あれだけあゆ君あゆ君って慕ってた及川の事、少しも心配してない素振りには勝手ながら腹が立つ。お前、及川にこれまでどんだけ支えられてきたのか分かってんのかって。
「噂はデマなんかじゃない。真実だ」
「な、何言ってるの土佐。俺、ちゃんと確めたんだから」
「よっしーのお父さん達の言う事は間違いだ。天城に都合のいい内容を信じこまされてるだけだから」
「何それ。言っておくけどね、うちの親はあゆ君の親でもあるんだよ?」
よっしーは口を尖らせ不満気な顔だ。けど、悪いけどよっしーとその両親に気を遣える余裕はない。
「お前の親は、及川を愛してはいなかったんだろ」
「な……なんだよ、その言い方」
「及川がどういう人間なのかちゃんと知ろうとしていれば、分かった筈だ。及川が薬物に手を染めてない事も、お前の大切な人を奪うような事する筈ないって事も」
「それは……」
よっしーが顔を真っ赤にさせた。自分の親を貶された怒りと、それともうひとつは───。
「それは、俺に対しても言ってるの……?」
よっしーの声が震えていた。俺は敢えて何も言わなかった。
「俺は……俺はあゆ君が大好きだったよ……!あゆ君がいれば他の友達なんていらなかったし、あゆ君がずっと傍にいてくれたから、俺は、少し自分に自信がついて、学校へも、行ける様になったし……あゆ君が大事だった!大好きだった!けど……だから許せないんだ!ずっと一緒にいたんだから、一番分かってる筈なのに!俺がどれだけみさちゃんを好きか、愛してるか、知ってる癖に……っ」
よっしーはもう涙声だ。
「お前は及川の何を見てきた?お前の知ってる及川は、俺の車にクスリなんて危ないもんを放置する様な奴なのか?お前の大事な彼女やっちゃう様な奴なのか?」
よっしーは泣き顔でふるふると顔を震わせたまま俯く。
「だって、じゃあみさちゃんが嘘をついたって言いたいの?あゆ君だって、『ごめん』って言ったんだ。『ごめん』って……。それは、認めたって事じゃないの?俺だって信じたくなかったよ!あゆ君を信じてたから、だからこそ、裏切られて辛かった。苦しかったんだよ……」
よっしーはぐすんぐすんと本格的に泣き始めた。岩崎がはぁぁぁ、とわざとらしく長い溜め息をついた。
「由信さぁ、俺の事は何だと思ってる?」
「え、岩崎くん……?は、友達、でしょ?」
「ざんねーん。俺、お前と友達になった覚えはねえから」
「え……」
「美咲ちゃんに頼まれたんだよ。俺への見返りは何だったと思う?美咲ちゃんだよ。『私とやりたいなら協力して』って言われたの。お前のカノジョとヤりたい一心で、ノロマなお前と一緒にいたってだけだぜ、俺は」
よっしーは目を見開いて絶句していた。怒りとか悲しみを覚える前に驚きでいっぱいという風に。
「仕事は簡単だったぜ。お前と愛由くんが接触しない様に見張る事と、愛由くんの監視。愛由くんが誰かと話したら逐一報告しろって言われてた。特にミスターは要注意ってな。で、まあ紆余曲折あって、愛由くんがミスターと仲良さげに喋ってたよって美咲ちゃんに報告したんだわ。そしたら、愛由くんどうなったと思う?」
よっしーに一直線に向けられた岩崎の視線は、まるで睨みつけるが如く鋭い。よっしーは蛇に睨まれたカエルみたいに表情から視線から全部固まってしまっている。
「全身傷だらけだった。手首は縛られた痕で擦り傷と内出血で可哀想な事になってたし、背中なんか、俺でも引くくらい……。あれは、縛られて鞭みたいなので無茶苦茶に叩かれた痕だ」
「鞭……?」
初耳だった。あいつ、殴るだけじゃなくてそんな事まで……。
「線上の傷が数え切れないだけあったぜ。皮膚が破けて、みみず腫になって、まあ、本当に、目を覆いたくなるくらい酷い有り様だった。……あ、なんで愛由くんの背中見れたのかは、この際突っ込むなよ」
岩崎の最後の一言は、明らかに俺に向けられていた。鞭ってワードと及川の負わされた傷の凄惨さに、ちょっとそこを疑問に思う余地がなかったけど、言われてみればそうだ。岩崎の野郎……。
「俺もさ、こー見えて暴力反対な訳。だから、それからは仕事放棄してたわ。だってこえーじゃん、俺が引き金引くのは嫌だったし、流石に同情もしたし……」
よっしーは相変わらず金縛りにでもあったみたいに微動だにしない。テーブルの何もない一点を見つめたまま黙っている。
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