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ストックホルム症候群 3

「って言うかな、俺だんだん美咲ちゃんより愛由くんの方に惹かれちゃって。ああ、断じて俺はホモじゃねーぞ。けど、愛由くん可愛いじゃん?そんで、お近づきになりたいなって思ってた訳だけど、見事にこのミスター様に目の前で掻っ拐われちまって、カッとしたんだよな。俺また美咲ちゃんの……愛由くんの彼氏の言うこと聞いちゃった。愛由くんは俺の罠に引っかかんなかったし、お優しいミスターは俺のせいじゃないって言ってくれてるけど、俺、責任感じてんだ。愛由くんがあの暴力彼氏に捕まって、どんな酷い事されてるかって思うと……」 「暴力……彼氏……」 「そろそろ察しはついたろ?美咲ちゃんは愛由くんの暴力彼氏のスパイで、俺は美咲ちゃんのスパイだったって事。愛由くんは彼氏の事『宗ちゃん』って呼んでた。それが、お前らの言う天城せんせーの事なんだろ。それに、愛由くん俺の前でその彼氏の事『好きじゃない』って断言したぜ。無理矢理、付き合わされてたんだろ。強請のネタは、由信、お前だったかもしれねえな。美咲ちゃん使って脅せばイチコロだろうよ。てか、美咲ちゃんをお前にくっつけてる使いどころはまさにそこだとしか思えねーしな。愛由くんは、お前の為にその身を犠牲にしてきたんじゃねーのか。その愛由くんに対して、お前なに?さっきの言い方。俺、久し振りにムカついたわ。自分の事ばっか考えやがって。そんなんだから、美咲ちゃんみたいな腹黒につけこまれんだよ!大体俺は、」 「岩崎、もういい」 俺の言いたい事は殆ど岩崎が言ってくれた。けど少し、言い過ぎだ。美咲さんがスパイだったって事実は、よっしーをこれでもかと言うほど傷付けている筈だ。言いたい事は分かるし岩崎の気持ちも分かるけど、追い討ちをかける必要はない。 「……そだ……」 まだ、何もない所を見つめたままのよっしーが呟いた。 「嘘だ……そんなの嘘だ!」 がばっと頭を上げたよっしーの鋭い視線が俺を射ぬく。 「みさちゃんが天城先生のスパイだなんて、そんなのあり得ない!だって、それならみさちゃんは俺に何の気持ちもないって言いたいの?知ってるだろ、土佐!3年だよ!俺達、付き合って3年になるんだ!そんな長い間俺を騙し続けてたなんて、そんなの信じない!俺は、みさちゃんが、そんな事するなんて……っ」 「よっしー……」 「あーうぜえ。美咲ちゃんはなぁ、愛由くんの暴力彼氏の事が好きなんだよ。その彼氏の頼みで、好きでもないお前とずっとお付き合いしてきたの。あんな可愛い子と3年も付き合えただけラッキーじゃん。こんな事もなきゃ、お前じゃあんなレベルのたけえ子と、」 「岩崎」 咎めると、岩崎はうぜーと言いたげに肩を竦めた。俺はよっしーに真実は知ってもらいたいけど、必要以上に傷付けたくはない。 「よっしー、辛いのは分かる。けど、及川を救うにはお前の助けが必要なんだ。理解してくれ、よっしー」 いくら俺が騒いでも、世間が騒いでも、及川の保護者であるよっしーの親が大丈夫ですってスタンスなら大きな壁になる。よっしーには、よっしーの親を説得して貰いたいのだ。及川に対して深い愛情がないのは分かってるから、後ろ楯になれとは言わない。けど、せめて、及川救出の動きの邪魔にならない程度には、真実を理解していて貰いたい。 「無理だよ、そんなの……、急に言われても……」 「及川な、岩崎も言ってたけど、俺やよっしーを盾に取られて天城に逆らえずにいるんだ。あいつが今どんな状況にいるか分かるか?鞭で全身傷だらけになる程ぶつ様な奴に、首輪と手錠つけられて監禁されてんだ。それでもお前の親が言う様に『大丈夫』だと思うか?」 よっしーは項垂れたまま何も言わない。苛つくのか、岩崎の貧乏揺すりの音だけがガタガタ鳴っている。 「あの噂……」 ぽつりとよっしーが口を開いた。 「あの噂、土佐が……?」 「ここまで騒ぎになるのは想定外だったけどな」 「そっか……」 よっしーはそう言ったきりまた黙った。またガタガタ音だけになる。俺も岩崎じゃないけど、焦りがない訳じゃない。寧ろ結構焦ってる。今日も、あと一時間もすれば仕事を終えた天城はあの家に戻って及川を抱くのだろう。及川は今日のその時間をどう思うだろう。ちゃんと嫌だって気持ちを持ち続けてくれるだろうか……。 「な、よっしー分かっただろ?及川はお前の事裏切ったりしてない。それどころか、お前の為や俺の為に犠牲になってんだぞ。助けてやろう、俺達で」 よっしーは顔を上げない。頼むよよっしー。お前が必要なんだ。及川が壊れてしまう前に救出する為に。そして、及川の心を取り返すために。 認めたくないけど、心底思った。俺じゃ弱いのだと。何も、俺よりよっしーの方が及川に好かれてる、なんて卑屈な事考えてる訳じゃない。けど、多分及川は、「土佐なら自分なしでも幸せに生きていける」って考えてる気がするのだ。本当はそんな事ないのに、俺にとって及川は何にも代えがたい存在で、及川がいなきゃ幸せになんかなれないのに。けど多分、及川は俺の事そんな風に見てる。 まあ俺も素行が悪かったから、そう考えてしまう及川を責めるつもりはない。けど、よっしーに縋られたら、及川も簡単に折り合えないと思うのだ。なんせ及川は、よっしーの事を「生きる意味」とまで言ってのけた事がある。よっしーに「あゆ君がいなきゃ生きていけないよ」って泣かれたら、及川も少しは天城から逃げだしたいって気持ちを思い出すかもしれない。自分の今の状況を、少しは客観的に見られるようになるかもしれない。 それは、自分の心を必死に守ってる及川を苦しめる事とイコールになることは分かってる。けど、我慢ならないのだ。及川が、あいつの元で全部諦めて、何の抵抗も示さず食われ続けてるなんて、想像するだけで腸が煮え繰り返る。だからせめて心の中だけでもあいつに抗っていて欲しい。それが例え苦しくても、「嫌だ、お前なんか嫌いだ」ってずっとずっと思い続けていて欲しい。ご飯をくれるとか、アイスを買ってきてくれるとか、散歩に連れ出してくれたとか、そんなほんの一部だけを見てあいつに感謝しないで欲しいし、大事にされてるなんて思って欲しくもない。抗う事を諦めて、俺らの事忘れて、あいつの気紛れの優しさにほだされて、及川が心まであいつに陥落したら………。 ───ストックホルム症候群。俺は、及川は正にそれになりかけていると思う。自分が悲惨な状況にあることを認めたくなくて、悲惨な状況に追いやっている相手に共感を示す。従順であればあるだけ待遇がよくなるから、思い込もうとする。本当は酷い目に遭いたくなくて言うことを聞いているだけなのに、自らの意思で加害者に従っているって。そうして全ての辛いジレンマから逃れるために、「加害者はいい人間で何も悪い事はしていない」と自分を洗脳するのだ。最終的には恋心を抱く場合まであるらしい……。 俺は、及川が自分自身を洗脳してしまうんじゃないかって事が何より怖い。及川救出の為……及川の「保護者」に真実を知って貰う為ってよりも何よりも、俺は及川の心を繋ぎ止める為に今すぐにでもよっしーを必要としてる。あいつに、及川の心まで奪われない為に……。 しんと静まり返ったテーブルで、シャリちゃんがこほんと咳払いをした。 「ヨシノブさん。ワタシからもおねがいします。オクサマをたすけてください」 シャリちゃんの懇願する様な声に、よっしーが漸く頭を上げた。 「ミサキってひとは、このひとのいうとおりです。よくオヤシキにきてます。あなた、だまされてる。ミサキはダンナサマのナカマです。これほんとのことなんです」 よっしーはシャリちゃんからも残酷な真実を突き付けられて唇を噛み締めた。けど、もう俯かなかった。女の子に対する強がりもあるのか、そうなんだとシャリちゃんに返事をして、それからゆっくりと俺に顔を向けた。 「土佐。俺、頭の中ぐちゃぐちゃで……。言われてる事は、分かる。分かるんだ。あゆ君のこれまでの行動とか、おかしいなって思ってた所とか、今聞いた話で全部腑に落ちてる。だから、岩崎くんや土佐やシャリちゃんの言うことは、きっと正しいんだよね……。けど、俺…………」 よっしーの声が震えた。必死に涙を堪えている。もしも及川がここにいたら、よっしーを抱き締めて慰めていただろう。そして、よっしーもわんわん泣いていただろう。 「ごめん……少し、ひとりで考えさせて。ちょっと、気持ちがついてかないんだ……」 誰も、岩崎でさえ異論を唱えなかった。泣き顔で必死に笑うよっしーは、わんわん泣いてる姿よりも悲壮感が強かった。

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