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岬
いつもよりも分厚い封筒を胸元で握り締め一歩外に出た途端、自動で外門が閉ざされた。
心にぽっかりと穴が空いた様だった。酷く空虚。このまま何も考えずにいたい。頭の中を空っぽにしたい。そう思うのに、忘れる事のできない焦りと不安が胸の内に渦巻いていた。
本当はずっと分かってた。私は利用されてるだけで、愛なんて欠片もないってこと。
それでもいいから傍にいたかった。頭では期待なんてしても無意味だって分かってたのに、もしかしたらいつか振り向いてくれるかもしれないって気持ちを、完全に捨てきる事ができなかった。
愛由を見張るために愛由の兄弟である由信と付き合って欲しいと宗佑に頼まれた時沸き上がった感情は怒りと嫉妬と悲しみだった。けど、同時に宗佑に必要とされた事が嬉しくもあって、これを引き受ければ定期的に宗佑と会えるんだっていう打算まで瞬時に脳裏を過った。
宗佑からの申し出を引き受ける事にした私には、当初ある算段があった。宗佑の寵愛を一身に受けている「愛由」とやらを手玉に取ってやろうという算段が。宗佑が惚れてる「愛由」を私が手に入れれば、宗佑の私を見る目も変わる筈。そう思ってた。
初めて愛由をこの目で見た瞬間、私は負けを悟った。顔のパーツ、配置のバランス、髪質、肌艶、体型、声、そして表情や目付きや話し方など、その身に纏う雰囲気まで全てが間違いなく極上だった。少女の様に愛らしい顔立ちをしているのに表情は冷たく眼光は冴え冴えとしていて、そのミステリアスなギャップが特に鮮烈に印象に残った。愛由を一目見た者は皆振り返るだろう事は間違いないけれど、きっとそれだけじゃない。知りたくなる。暴きたくなる。その気怠げで冷たい表情の内側を。
私も美少年と持て囃されてきた方だった。けど愛由はレベルが違った。敵と認識している私ですら見惚れてしまったし、惹き付けられた。悔しかった。ともかく悔しかった。私は努力してお金も莫大にかけて、それで漸く宗佑に抱いて貰えるまでになった。それなのにこの子は何の努力もせず男のままなのにこんなにも綺麗で、宗佑に喉から手が出る程に求められているのだから……。
愛由は私に劣等感を植え付けた。
どうにか立場を逆転したくて愛由にしたアプローチも悉く失敗に終わったし、私に熱を入れ上げてる筈の由信も、愛由の事を私以上に想っているのがその態度や言動の端々から滲み出ていた。土佐もそうだった。宗佑だけじゃない。愛由の近くにいる者はみんな、様々な意味で愛由に惚れていた。
「みさちゃん……」
マンションの部屋の玄関前に踞る様に座り込んでいた人物が頭を上げた。驚きはしなかった。遠くからシルエットを見て、それが由信だって分かってたから。
「由信くん、どうしたの?」
「ごめんね、今日会う約束してなかったのに……」
「そんな事はいいけど……ともかく入って」
玄関の鍵を開けると由信を中へ招き入れる。由信の目は泣き腫らしたかの様に真っ赤だ。何かあったに違いない。もしかして、宗佑が私が別れ易い様に何か手を回したのかもしれない。そんな予感が脳裏を掠める。宗佑が、私を気遣って───。
「みさちゃん、本当の事を聞かせて」
由信は開口一番こう言うと、覚悟を決めた顔で土佐や岩崎に聞いたという話を──私と由信の関係の真実を話し始めた。
私の予感は全くの外れだったけど、ある意味当たっていた。由信は知ってしまったのだ。私と由信の間に愛なんてなかったことを。
「……由信くんはどう思うの?」
「俺は…………」
由信は苦しそうに言葉を探していた。
……私は由信をどうしたいのだろう。宗佑からもう別れていいと言われたのだから、何も躊躇する事はないのに。真実を知られたら宗佑は困るのかもしれないけれど、別に口止めなんかされてないし、寧ろ困ればいいとすら思う。けど───由信が土佐の様に愛由を救うと騒ぎ出し、宗佑が由信までその手にかけようとしたら………。
「信じたくないよ。けど、それが真実なんだね……」
いつの間にか真っ直ぐに私に視線を向けていた由信が言った。確信している口調だった。
「昨日聞かされて……一晩色んな事考えたんだ。どうすればこの話を否定できるかなって。けど、どうやっても無理だった。凄く悲しいけど、無理だったんだ……」
「分かってるなら、一体何をしに来たの?私を責める為?そうよね、許せないよね。3年も騙してたんだから」
思わず言ってしまってから気づいた。私は由信とこんな別れ方したくなかったのだと。もっと穏やかに優しく離れたかった。由信を泣かせたくはなかった。真の愛はなくとも、由信という人間を、私は────。
「みさちゃんを責めるつもりなんてない。みさちゃんも苦しかっただろうから……」
由信が泣きも喚きもせず達観した様にそう言った瞬間、私の中で何かがプツンと切れた。
「何言ってるの?バカじゃない!私は、ずっとあんたの事騙してたのよ!愛由を見張る為……愛由の鎖になるために……!」
「みさちゃん……」
「……愛由は全然手玉に取れなかったけど、あんたは簡単に落ちてくれて助かった。そう言えばね、宗佑に頼まれて土佐に私の友達を仕向けた事あるの。その子、付き合う所までは成功したけど、ヤる事ヤったらすぐ振られちゃったんだって。その点あんたは楽だったなー。2年以上もセックスさせないで文句言わない男なんてそういないもんね。あんたがモテない、冴えない男でよかった」
「そっか……」
「…………あ、ねえ。由信くん童貞だから気付かなかっただろうけど、私元々男だったの」
「え?」
由信の表情がようやく変わった。同情する様な顔から驚きへ。
「そっちの意味でも騙しててごめんね。それにしても由信くん、初めての相手がニューハーフで、騙されてって、散々ね」
「そんなことない。俺は初めてがみさちゃんでよかったって思ってるよ」
「はあ?ねえ、あんた正真正銘のバカなの?怒りなさいよ!責めなさいよ!罵りなさいよ!あんたの目の前にいるのは最低の人間なんだから!!」
「みさちゃんは最低なんかじゃない」
「私の事何も知らない癖に!私は宗佑に好かれる事しか考えてないんだから!それ以外なんてどうでもよかった!あんたが傷付こうが、愛由が殴られ様がどうだってよかったんだから!」
「俺、みさちゃんの事ちゃんと知ってるよ」
「知らないわ!」
「知ってるよ。3年も一緒にいたんだから。みさちゃんが一途で優しい子だって事も、一人でずっと苦しんできた事も、よく分かる。俺はみさちゃんを責めたりしない。だから、もう泣かないで」
由信に言われて漸く気付いた。いつからか自分がボロボロ涙を流している事に───。
「みさちゃん……」
泣いてることに気付いたら、喚いて誤魔化していた気持ちまでもが引き摺られてしまった。歯止めが効かなくなった私は、わーっと声を上げて泣き喚いていた。
由信への罪悪感。愛由への憎しみと嫉妬とほんの少しの同情。そして、どんどんおかしくなっていく宗佑の事。抱えきれない感情が決壊して溢れ出す。
「こんな筈じゃなかった……!私、どこで間違えたんだろう!宗佑はどうして……いつからあんな風になっちゃったんだろう……!」
宗佑の愛由への想いは初めから狂気染みていた。それがどんどんエスカレートして行っているのは、傍で見て気付いていた。けど、止められなかった。宗佑の邪魔をして、宗佑から役立たずと思われるのが嫌だった。そんな自分の独り善がりで優しい由信を傷付け、何の罪もない愛由を陥れ、日毎におかしくなっていく最愛の人すら、私は見殺しにした。
「このままじゃ宗佑が……宗佑が捕まっちゃう。取り返しのつかない事、しようとしてるの。由信くん、どうしよう……どうしたらいいの……」
ああ。私はなんて無力なのだろう…………。
由信は泣きじゃくる私の背中を優しく擦りながら、感情のままに吐き出した私の支離滅裂な話を聞いてくれた。
私は、由信という男を侮っていたのかもしれない。
愛由が暴力と脅迫で支配されてると話した時は唇を噛み締めていたけど、やっぱり最後まで私を責める言葉は出て来なかった。宗佑が土佐を殺してしまうかもしれない。そう告げた時でさえ、由信は私を気遣ってか大袈裟な反応はしなかった。
私の話に頷く由信の眼差しには優しい中にも力強さがあって、現実から目を逸らして逃げているんじゃなく、受け止めていた。
───間違いない。私は由信を侮っていた。由信の事を気が弱くて大人しいだけの男だと思っていた。由信には結局何も出来ないって思っていたし、だからこそ、私は思いを吐き出したのだ。由信に解決なんて求めてなかった。ただ、聞いて欲しかった。私は由信の気弱さと優しさに甘えていたのだ。
「許さない」
私の話を聞き終えた由信がぽつりと言ったその一言に、一瞬背筋がゾッとした。
弾かれる様に伏していた頭を上げると、いつもの様に優しい眼差しの由信がそこにいた。
「本当の事を聞かせてくれてありがとう」
私を元気付ける様に優しく微笑んだ由信が、そっと頭を撫でてきた。遠慮と慈しみが入り交じった触れるか触れないかのその距離がもどかしくて、気づけば私は由信の胸に飛び込んでいた。
力強く抱き締め返してくれる腕が暖かくて頼もしい。この人はこんなにいい男だったんだ。気付かなかった。私、全然知らなかった。知ろうとしなかった。もっと前に気付いていたなら。知っていたなら。こんな風に取り返しのつかない事にはならなかったかもしれないのに……。
この人を失いたくない。
───それはあまりにも自分勝手すぎるよね。
「ごめんなさい……ごめんなさい…………」
どんなに泣いても。何回謝っても。この腕は、胸は、もう私のものじゃない。
愛してる。
宗佑を想う、燃える様な激しい感情でなくても。
今更気付いても、もう遅いのに。
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