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来客 2
お父様に与えられた恐怖はいかばかりか。
愛由が落ち着くまでには予想以上の時間を要し、シャワーを浴びる時間は取れそうになかった。代わりに、由信をもてなす為に特別に休日返上で来させているメイドに熱い湯とタオルを準備させて、愛由の身体を拭き清める事にした。
「由信は岬に振られたみたいなんだ。愛由に慰めて貰いたいと言ってるんだけど、愛由は薬物中毒で精神を病んでるって事になってるから、由信の前では何も喋っちゃいけないよ」
愛由にとって結構衝撃的な事を告げたと思うが、それでも愛由は大して驚くこともなく素直にこくんと頷いた。
「どうかした?」
さっきの言い付けに異論はなさそうだったのに、その後になって何か言いたげに俺の顔をチラチラと見てきたから聞くと、愛由は少し逡巡した後に口を開いた。
「由信とは、こうしてたまに会えるの……?」
ああ成る程。それを期待した訳か。
「いや、これが最後だよ」
今度は愛由は強かにショックを受けた様だった。
「最後、なんだ……」
「もう二度と会えない筈だったんだよ?」
「……そうだよね、ごめんなさい。会わせてくれて、ありがとう」
愛由は俺が不満だったのをちゃんと察知した様だ。見透かされているのは少し面白くないが、ありがとうの言葉と笑顔で全て許してしまう。主導権を完全に掌握できていない事に焦り苛立つ時期は疾うに過ぎて、今ではこんなにも腑抜けにされてしまっている。そんな相手が俺だけのものであるという事実に、目眩がするほどの喜びと充実感があるのみだ。
性的衝動を抑えながら清拭を終え、愛由に久し振りに普通の服を着せる。首の痕を隠すためのタートルネックのカットソーと、柔らかな綿のスラックス。部屋着であっても、どれもいい生地を使った高級ブランドのものだ。それを身に纏う愛由自身が最高級だから、当然の様に着こなしている。いつも剥き出しの足が、緩いスラックスに覆われているのを繁々と眺めている愛由の横顔は心なしか嬉しそうだ。
ただ部屋着を着せただけでこんなに喜ぶのなら、たまには愛由に着たい服を選ばせてやってもいいのかもしれない。この部屋に閉じ込めてから、土佐と面会したのを最後にパンツやスラックスの類いはおろか、下着すら履かせていなかったから。
普通の服を与えないのは俺の好みというのもあるが、逃亡の意思を削ぐ意味合いもある。だから、与えるとしても本当にたまに。愛由に逃げる意思なんて最早微塵もなさそうだけど、それでも手綱を緩めるつもりは毛頭ないから。監禁も首輪も手錠も、例えどんなに愛由が従順でも絶対にやめない。
今日は本当に異例中の異例だ。由信をいい駒に仕立てる為の特例だ。それでもあまり長く面会させるのは嫌だから、「体調が芳しくない」等と理由をつけて5分程度で愛由は部屋に戻そうと思っている。久し振りに由信に会えるということで隠しきれない程ソワソワしている愛由には少し可哀想だけど。
*
リビングでソファに座る愛由を目にした途端、由信は目を潤ませた。
「あゆ君っ……、ごめん!ごめんね……っ!」
「由信くん、悪いけどあんまり愛由を刺激しないでくれる?」
愛由に飛び付かんばかりの勢いで駆け寄ってきた由信を腕で制した。愛由は言い付け通り黙っていた。俺に止められた所で棒立ちした由信が、そんな愛由をじっと見つめている。
「どうぞ座って?」
促され漸く向かいのソファに腰掛けた由信の前に完璧なタイミングで紅茶とケーキが並べられる。
若く経験の少ない異国のメイドだから期待していなかったが、こいつが意外に有能なのだ。無駄口は叩かないし、余計な事に首を突っ込んできたりもしない。主人とメイドの立場の違いをきちんと弁えている所を特に気に入っている。
由信は外国のメイドや運ばれてきたケーキには一切目を向けず、大きなリュックサックを胸の前で抱えたまま、なお愛由だけを見つめていた。
この豪邸、室内の調度品、そしてメイドの存在に、庶民の由信は多少なりとも圧倒されるだろうと思っていた。そして、精神を病んでいるのにいい暮らしをして小綺麗にしている愛由を見て、土佐の流している噂が完全なる狂言だと確信を持つだろうと。それを狙ったのに、由信の反応はいまいちだ。眉根を寄せて愛由を見つめるその瞳には動揺なんて微塵もなくて、俺の考えていた、「簡単に洗脳できそうな人物像」とはかけ離れて見えた。
──これはもしかしたら一筋縄ではいかないかもしれない。予定よりも早いけど、もう愛由を部屋に戻そうか……。そう考えていた矢先、突然由信が口を開いた。
「あゆ君、君は俺の光だ」
ぴったり寄り添う様に座った愛由の肩がピクリと動いたから、牽制の為に重ねていた手をぎゅっと握った。誰も返事をしない中、それを気にする素振りもなく由信が続ける。
「君と出会ってもうすぐ4年になるね。この4年間は、俺にとって特別な時間だった。今まで生きてきた中で、一番輝いてた。こんな俺の人生に光を灯してくれてありがとう。出会ってくれて、ありがとう」
由信は淡々と意味不明な事を言った。いや、意味は分かるのだが、脈絡が不明な事を……。
「どうしたんだよ由信……」
判然としない嫌な予感を覚えて胸と頭の中がモヤモヤし出した時、思わずといった調子で愛由が不安そうな声を漏らした。
振り返る。「喋るな」そう、視線で訴える為に。だが、愛由の視線は咎めている俺にはチラリとも向かず、ソファをぐるっと半周する様に動いて、それから俺の頭上で止まった。
──あんなに俺を畏れていた筈の愛由が、俺の言うことを聞かず、俺の怒りすら無視している。そう思った瞬間、言い様のない不安に心を支配された。
このまま愛由が俺の言うことを聞かなくなったらどうしよう……。そんなの簡単だ。また殴って痛みで躾ればいい。俺への畏敬を思い出させてやればいいのだ。けど、そうしたら───。
もう愛由は俺に笑いかけなくなるかもしれない。「ありがとう」とか「嬉しい」とか言わなくなるかもしれない。前みたいに怯えるばかりになって、自然な会話も出来なくなるかもしれない。
俺の言うことを必ず守る従順なお人形を作るのは、暴力的支配を施せば多分簡単だ。けど、俺が望んでいるのはそんなものじゃない。俺が欲しいのは────。
「逃げて」
愛由じゃない声が頭上から聞こえて、咄嗟に顔を上げる。目の端に鈍く光るものが写った。
「だめ!!」
大きな叫び声が耳に入ると同時に強く身体が突き飛ばされ、俺は不覚にも一瞬天井を見上げる姿勢になった。───愛由だ。俺の隣にいた筈の愛由が、今は俺に背中を向けている。
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