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夢の中へ

嫌な予感がしていた。由信の言動が、雰囲気があまりに異様だったから。だから、流れるように静かに立ち上がってこっち側に来た由信から目が離せなかった。胸元で抱えたリュックからキラリと光る物取り出された時、それが何か認識するよりも早く身体が動いていた。宗ちゃんを後ろへ突き飛ばし、自身の背中の後ろで庇った時にはもう、由信は腕を振り上げていた。ぎゅっと目を瞑っている由信が、一気に腕を下ろす。──衝撃があった。 「!!あゆくんっ……!!!」 由信の引きつった悲鳴がくぐもって聞こえる。 「愛由!!!」 続けて宗ちゃんの声。意識が遠退きかけてるのが分かった。だめだ。まだ由信と宗ちゃんに言わないといけない事があるのに…………。 ─────。 ────。 ───。 「なんか及川ってさ、囚われのお姫様みてーだよな」 「姫……」 「この薔薇もさ、いかにも魔王の城とかにありそーじゃん」 懲りずにまたやって来た土佐が、タイワンツバキの両脇に宗ちゃんが植えさせた黒薔薇の花弁を撫でている。 「姫を助ける勇者はとーぜん俺な」 土佐が歯を見せてニッと笑う。 あ。───この顔、見たことがある。土佐はよくこうやって笑うけど、そう言うんじゃない。このやり取り自体、前にした事のあるものだ。 「バカバカしい」 「そーか?構図としては間違ってねーだろ?あーあ、早くラスボス倒して及川連れ帰りたい。『姫、お迎えに上がりました』って」 「だから、何回も言ってるだろ。俺は助けて欲しいなんて思ってない。迎えなんかいらねーから」 「……姫が魔王に洗脳されてる」 「はあ?されてねーし姫って言うのやめろ」 「はは、わりーわりー」 土佐は全く悪いと思ってなさそうな顔で笑って、今度はタイワンツバキの花弁を撫でた。 「けど怖ぇんだ。この及川みてーな花も最近元気ねーし。こんな毒々しい花に挟まれちゃあ、純白の花弁も黒くなっちゃいそうでさ」 ──土佐が寂しそうに苦笑したこの顔もはっきり覚えている。そしてこの後に自分が言うことも。 「その花は、俺じゃなくて宗ちゃんだと思うな」 「え?これが魔王?」 「宗ちゃんは子供みたいに純粋なんだ。純粋過ぎるくらい……」 子供というよりも赤ん坊の様な。そんな部分を宗ちゃんは持ち合わせている。時々聞こえてくる。赤ん坊の様にわんわんと大きな声を上げて泣く宗ちゃんの心の声が。宗ちゃんはいつも何かに餓えている。癒えない渇きにもがいている。俺を閉じ込めても、縛っても、何度身体を重ねても、何をしても宗ちゃんは決して満たされない。足りない、と泣いている。 「……及川、目を覚ませ。子供みたいに純粋な奴はこんなことしねーから」 土佐は酷く苦い顔をしていた。俺が宗ちゃんの事を好意的とも取れる風に話すと、土佐は本当に嫌そうな顔をする。大体の事に動じない土佐だけど、この時ばかりは100%の確率で「ムカつく」って顔になる。 「そういう部分もあるって言っただけ」 「ねーよ。あんな奴、人間の心のない悪魔だよ」 土佐が冷たい目をして吐き捨てる。土佐には宗ちゃんはそう見えるのか。俺もただただ殴られてた頃ならそう思っていたかもしれない。けど、今は分かる。宗ちゃんの苦しみが見える。……そんな事言っても土佐を更に苛立たせるだけだから言わないけど。 「由信は元気?」 「あー。まあ、元気なんじゃねー?」 わざとらし過ぎる程に逸らした話題に対する土佐の返答は、なんとも歯切れの悪いものだった。一気に心配になる。 「支えてやってくれな。あいつが頼れるのは、もうお前だけなんだから」 ───本当にそう……?俺にしか出来ない事があったんじゃなかったっけ……。 「あのさ、俺は及川の代わりにはなれねーから。よっしーが心配なら、まずここから出る事考えよーぜ」 「だからそれは無理だって、」 「無理じゃねーから。頼むから及川も前向きになってくれ」 「……この前」 ──この前……? 「この前、宗ちゃんにカマかけられたんだ。俺、お前の事がバレたんだって思って、生きた心地しなかった」 ──記憶と違う。こんな事、あの時は言わなかったのに。 「怖かったよ。すげー怖かった。もう本当に土佐が殺されちゃうんじゃないかって……」 ──あの時は本当に怖かった。自分の事よりも何よりも、まず真っ先に土佐を思った。違うと分かってほっとした時も、土佐の事を思った。あれは一体いつだった……?この前って言う程前の話だったっけ……? 「そろそろ潮時かなあ」 土佐が場違いな程軽い口調で言った。 「言い出し難かったんだけど、俺最近彼女出来たんだわ。だから及川に構ってる暇ねーんだよな」 言葉を失う俺を尻目に、土佐はあっけらかんとしている。 「いい機会だし、勇者ごっこももうこれで終わりにするかな。まだ死にたくねーし」 土佐がいつもの顔でにっと笑う。 「じゃ、これでさよならだな、及川。宗ちゃんとお幸せに」 軽い調子でひらひらと手を振って、土佐がくるりと背を向けた。何の迷いも躊躇もなく俺の視界から土佐が消えていく。 ドサッと何かが落ちる微かな音がした。呆然と土佐の背中を見ていた視線を戻すと、タイワンツバキの花が丸ごと地面に落ちていた。さっき土佐が触っていた花も他の花も全部、落ちていた。 ──何を呆然としている。なぜ傷付いているんだ。これは俺が、俺自身が望んでいたことじゃないか。土佐は俺に関わる事をやめた。土佐に危害が加えられる事はもうない。望んだ通りになったじゃないか。なのに、なんだこの喪失感は。生きる事すら放棄しそうな程の空虚感は。 「土佐……」 こんなのは嫌だ。 「土佐!待って!行かないで!」 気付いたら叫んでいた。嫌だ。嫌なんだ。今まで土佐に貰った思い出も言葉も時間も、全部が無意味になってしまう様な、こんな別れ方は嫌だ。嘘でもいいから言って欲しい。離れてもずっと思っていると。俺はそれを糧にするから。それがなきゃ、何を支えに生きていけばいいのか分からないから───。 「土佐!!!」 ズキッと胸に痛みが走り、目の前に閃光が走った。 「及川!」 知らない部屋。そして───。 「土佐……」 「及川、俺、どこにも行かねーからな」 両手をぎゅうっと包んでくれていた手に力が籠った。ぽかぽかする。ぼーっとする。 「夢を、見てた」 そうだ。夢だ。さっきのは夢だったんだ。 「うん。及川魘されてた」 「土佐、彼女が出来たって」 「へえ?」 「俺に構ってる暇がなくなったから、じゃあなって」 「それで、及川は『待って』って追いかけたんだ。『行くな』って」 「うん」 俺の夢なのに、何で土佐が知ってるんだろ。 「死ねって言われた気がした」 「へ?」 「俺、お前に見放されたらそう思っちゃうみたい。変だよな」 本当変だ。俺の思考も変だけど、他にも変な事ばっかり。ここはどこなんだとか、何で土佐がいるんだろうとか、宗ちゃんはどこに行ったのかなとか。さっきまで見てた夢よりも、今の方がよっぽど夢みたいだ。これが夢で、あれが現実だったら───変だけどやっぱり俺は生きていけない気がする……。 「変じゃねーよ」 声がして顔を上げると、土佐が優しい顔で微笑んでた。慈悲深いとはこのことかなって顔で。 ───これも夢だ。だって考えたらおかしい。土佐が当たり前に何の隔たりもなく俺の傍にいるなんて。夢なんだ。だったら──取り繕う必要も強がる必要もないってこと。 「嘘でもいいから、俺の事忘れないって……いつも思ってるって、言って欲しかった……。その言葉があれば……お前がくれた時間が嘘じゃなきゃ、俺、頑張れると思うから……」 「なあ及川。これ以上何を頑張るんだよ。頑張んなくていいよ。もう頑張んなくたっていい」 土佐に頭を撫でられて、なんかそういうボタンでも押されたみたいに涙がぼろぼろ零れた。寝てるから耳の方に流れていって気持ち悪い。身体を起こしたいのに、夢だからか身体に力が入らない。 「お前、こんな時まで何で『助けて』って言わねーの?何で自分を犠牲にしちゃうんだよ。何でそんなに……優しいんだよ……」 土佐が声を震わせてる。泣き出しそうな、悔しそうな、苦しそうな、けど穏やかな声色で。 土佐の顔が見えない。涙で滲んでるとかじゃなくて、暗くて。ぎゅっと、また土佐が手をきつく握ってくれた。その心地よい温もりに、途切れそうになる意識を集中させる。 「及川のバカ。俺が及川の事忘れる訳ないだろ。俺はいつもお前の事ばっか考えてんだから。ずっとずっとお前の事───」 土佐の声が聞こえなくなる。闇がどんどん濃くなる。温もりが分からなくなる。 ああ。夢が終わる。 けど、最後に聞いた土佐の言葉がふかふかの毛布みたいに俺を包んでくれているから、怖くはない。大丈夫。俺はまだ生きていける。まだ頑張れる。暖かい思い出達は、嘘じゃないから。

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