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さよなら 1
願い事は基本叶わない。他力本願な願い事なんて絶対に────。
母親が早く帰ってきます様に。そう願う時ほど母は何日も家を空けたし、今夜はおじさん達が来ません様にって願いも叶った試しがない。おじさん達は人を代えて休みなく毎日やってきたし、それぞれ思い思いの方法で俺をいたぶった。拒絶すれば殴られ、言うことを聞けば心がズタボロにされる。母親は、俺にできる唯一の仕事だと言った。俺はずっとこうして大人の男の慰めものとして生きていくのだと。嫌で嫌で堪らなかった。けど、願った所で叶う筈もない。俺なんかの願いを、一体誰が叶えてくれるというのだ。稼がないと食べ物をくれない母親が?俺を殴り、辱しめ、それによって性的興奮を得ることしか頭にないあの大人たちが?あり得ない。誰も助けてはくれない。こういう生き方から抜け出したかったら、願いを叶えたければ、自分でどうにかするしかないのだ。けどどうやって……。
おじさん達が逮捕されて施設に保護されて、漸く俺は答えに辿り着いた。「学をつければ、真っ当な事をして稼げるんだ」と。
今思えば──俺が施設に保護されたのは宗ちゃんが通報してくれたお陰だったから、宗ちゃんがその代償を俺に求めるのは至極当然の事だったのかもしれない。それに、それだけじゃない。宗ちゃんのお陰で、俺は随分と勉強が出来る様にもなった。
あの時、俺の将来に明かりを灯してくれたのは紛れもなく宗ちゃんだった。宗ちゃんはその見返りを俺自身に求めたのに、傲慢にも俺はそれを拒絶した。宗ちゃんにしてみれば、借金を踏み倒された様なものだったろう。俺は宗ちゃんから恨まれ怒られて当然だった。だって、努力や労力や代価なくして願いは叶わない。それは、俺がこれまで生きてきて得た普遍なる教訓の内のひとつだった。
けれど────土佐は俺に何も求めない。犠牲なくして得るものなんて、あっていいわけないのに、そんな都合のいい話が通る筈がないのに、それなのに、何も失わずして何かを得る方法を、土佐は当たり前の様に提示してきた。俺の望みを、願いを、矛盾していようと何だろうと全部叶えてやると。
一度、土佐に好きだと言われた事がある。もし今も同じ気持ちなら、土佐は俺が欲しい筈だ。宗ちゃんと同じ様に俺自身を代価として求めてもおかしくない。けど、土佐は俺に返事を求めなかったし、寧ろ何も答えられない俺を気遣ってくれた。昨日だって、泣きじゃくって弱ってる俺を前にして何の駆け引きも持ち掛けて来なかった。頭のいい土佐は、きっとその気になれば俺をいい様に操れただろうに。俺はそれだけ、土佐に弱味を晒け出したと言うのに。
土佐は頻りに言うのだ。「及川を幸せにしたい」と。
何の代償も見返りも求めず、ただ幸せになって欲しいと願ってくれる存在なんて…………俺にはこれまでただのひとりもいなかった────。
「及川くんの応急処置をしてここまで連れてきたのって、天城先生の息子さんだったんですって?」
点滴を替えにやってきた看護師のひとりに問われ、俺は頷いた。意識はなかったけど、そうしてくれたのは宗ちゃん以外にいないだろうから。
「だから処置が的確だったのね。及川くんが助かったのは、手術した天城先生の腕がよかったのもそうだけど、応急処置が早くて正確だったのが一番の要因だったと思うわ。感謝しなくちゃね」
「あのー、天城先生の息子さんって、昨日お見舞いに来てたイケメン君ですか?」
血圧を計っていた若い看護師が口を挟む。
「昨日来てた人は違うと思うけど……」
視線を感じて、俺はまた頷いた。「違う」を肯定する意味で。昨日朝早くに宗ちゃんも来てたけど、すぐに「天城先生」に連れて行かれた。そのあと一日ずっとついてくれてたのは土佐だから。
「それにしても昨日の彼、素敵だったなぁ。格好いいのに笑った顔が可愛いくて。あーいうのって、母性本能擽られるんですよねー。及川くんのお友達?大学生?彼女とかいる?」
「こらこらやめなさい。及川くん困ってるじゃない。そうそう、夜勤で見掛けたって人によると、天城先生の息子さんも相当なイケメンらしいわよ」
「え、ほんと!?類は友を呼ぶって本当なんだー!だって及川くんの周りイケメン濃度高過ぎません!?及川くんは可愛い系だし、昨日の彼は爽やか系でしょー。天城先生の息子さんは何系イケメンだろ?」
「噂によるとね…………」
二人は宗ちゃんと土佐の話題で盛り上がっている。
───こんなに賑やかなのは久し振りだな……。宗ちゃん以外の声がするっていうのがまず新鮮だ。それに、じっと見つめられる事も、求められる事も、悪意や、狂暴な好意を向けられる事もなく、けど独りぼっちじゃないっていうのは、なんだか凄くいい。落ち着く…………。
二人がいなくなって静かになった病室内はしんと静まり返って少しだけ寂しい。けれど、同時に疲れも感じていたのか、瞼が重い。
考えるべき事が沢山あるのに、身体がダメージを受けているせいか、ともかくすぐに眠くなる。昨日も土佐が一日いてくれたのに、その殆どの時間眠ってしまっていた。土佐と過ごせる時間は貴重なのに。由信を救う方法だって考え付かなきゃいけないのに……。
宗ちゃんとのあの家での生活は、苦痛じゃないと思ってた。殴られないし、ご飯は与えられるし、幼い頃に置かれていた環境よりもずっと、ずっといいんだからって。けど、今またあそこに戻されると思うとゾッとする。誰にも会えず、どこにも行けず、宗ちゃんを満足させる為だけに存在し、生きていくと思うと────。
「………ません、もう少し寝かせておいてあげたいんだけど……」
「あ、は、はい大丈夫ですよ!他の部屋回った後にまた来ます!」
若い看護師さんの声……。検温かな……。点滴の交換かな……。重い瞼を持ち上げると、白衣を着た背中が見えた。
「まだ寝てていいよ」
その背中に声を掛けようか否か考えていると、ドアのある方とは反対側から声がかかった。
「看護師はまた後で来るから大丈夫」
振り返ると、窓際で宗ちゃんが優しく微笑んでいた。
「ごめん宗ちゃん、気が付かなくて……」
「気にしないで。愛由は寝顔も可愛いから」
宗ちゃんの俺を見る視線はやっぱり強くて少し落ち着かない。こんな風にずっと見られているのも、これまでは当たり前だったのに……。
「目、覚めちゃった、から……」
「そう。体調はどう?」
「うん、悪くないよ。あの……宗ちゃん、ありがとう」
「うん?何が?」
「看護師さんに聞いた。宗ちゃんがちゃんと応急処置してくれたから、俺は助かったんだって」
「ちゃんと出来てたのならよかった。あの時は必死でね……実はあんまり覚えてないんだ」
はにかむ宗ちゃんを見ていると胸がチクリと痛む。自分がとんでもない裏切りを働いているかの様な罪悪感に苛まれて。
宗ちゃんには本当に感謝してる。俺が生きていられてるのは宗ちゃんのお陰なんだから。けど、それなのに。宗ちゃんは命の恩人なのに、俺は今、宗ちゃんとあの場所に帰りたくないと思っている。
「愛由が助かって、今もこうして生きててくれて本当によかった。愛由のいない世界では、俺は生きられないから」
微笑む宗ちゃんの横顔がどこか儚く寂しげで、ドキリとした。どうしてだか分からないけど、胸がざわつく……。
*
「点滴見に来ましたあ」
さっきから、検温以外にもやたら頻繁に色んな看護師が部屋を訪ねて来る。宗ちゃんと二人きりだとどうしても緊張するから助かってるけど、看護師さん達、明らかに点滴とかより宗ちゃんを見てる気がするんだけど……。
「終わったらコールするよ。この量をこの速度でだと、あと3時間は終わらないかな」
宗ちゃんがそう言って微笑むだけで、看護師は頬を真っ赤にした。宗ちゃんを前にした女の人は、舞い上がるかガチガチに緊張してしまうか、どちらかだ。ある意味近付き難い程に宗ちゃんが綺麗だからだろう。顔やスタイルだけじゃなくて、その佇まいや表情からも気品みたいなものが漂っている。こんな宗ちゃんにアプローチされて好きにならない女の人はいないんじゃないだろうか。男だってそうなのかもしれない。
───どうして俺だったんだろう。俺じゃなければ。宗ちゃんを愛してくれる人を、宗ちゃんが愛してさえいれば、宗ちゃんは幸せになれただろうに……。
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