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さよなら 2
「土佐は来ないよ」
夕方になって、俺がソワソワし出した事に気付いたのだろう、宗ちゃんが言った。
昨日、土佐は「毎日来る」って言ってた。そろそろ大学の講義も終わる頃だ。また昨日みたく二人が鉢合わせてしまったらどうしようと思っていたのだけど……。
「待ってた?」
「え……」
「土佐のこと」
「………………」
咄嗟に言葉が出なかった。すぐに否定しなきゃいけない事なのに……。
「いいんだ。愛由の本当の気持ちを聞かせてよ。俺と土佐、どっちに来て欲しかった?」
宗ちゃんの真意が分からない。表情から読み解こうとしてみても、宗ちゃんは静かで穏やかな顔で俺の答えを待っているだけだ。
「……言え……ない………」
言ってから思った。バカだ。こんな返答、言葉にしないだけで、答えがどっちか明確じゃないか………。
「…………どうして、土佐なの?」
思わず伏せていた視線を上げる。驚いたのだ。模範解答を大きく外したのに、宗ちゃんの声に怒りの色がなかったから。
「大丈夫だよ、怒らないから」
目が合うと、宗ちゃんは柔らかく微笑んだ。
「もしも……俺に…………」
ちゃんと答えなきゃいけないと思った。どうしてかは分からないけど、宗ちゃんが今求めてるのは偽りなんかじゃなくて、俺の本当の気持ちを知ることなんだと思ったから。
「俺に、ちゃんとした家族がいたら……土佐みたいな感じなのかなって……思う、から……」
「家族……?」
宗ちゃんから聞き返されたけど、俺は頷くだけに留めた。
安心できる場所。帰りたい場所。どんな自分でも受け入れ認めてくれる場所。代価なしに愛してくれる場所。
思うところは沢山あるけど……何を言っても結局宗ちゃんを傷付けてしまいそうだから……。
「そんな綺麗なものじゃない」
背筋が冷たくなった。宗ちゃんの笑顔が皮肉めいたものに変わる。言葉の響きに棘が混じる。
「あいつは愛由とセックスしたがってるんだよ?愛由も男だから分かるよね?男の『好き』は、『セックスしたい』って事だって。俺とはやり方が違うだけで、あいつだって考えてることは俺と大差ない。なのに……何で土佐がいいの?何で俺じゃだめなの?」
怖いと思っていた気持ちはすぐに消えてなくなった。宗ちゃんから発せられる感情に怒りなんて微塵もなくて、その全てが悲しみに染まっていたからだ。昨日も宗ちゃんは悲しそうだった。けど今日はもっと。もっと、身体を芯から凍らす様な、心を握り潰される様な深い絶望と嘆きを感じる。一体何が…………。
「……ごめん」
まだ深い悲しみを宿したままの宗ちゃんが、取り繕う様に苦笑して首を振った。
「こんな事言うつもりじゃなかったのに……」
「宗ちゃん、何かあった……?」
「…………愛由は優しいね」
宗ちゃんは俺の問い掛けには答えず、代わりにクスリと小さく笑った。
宗ちゃんが宗ちゃんでないみたいで心配だ。とても心配……。宗ちゃんを宗ちゃんたらしめていた存在感があまりに希薄で、消えかけの蝋燭みたいに頼りなくて……。
「……由信の事は、俺が何とかするよ。愛由は何も心配しなくていい」
うっすら微笑んだまま、宗ちゃんがそう言った。あまりに唐突で、俺は一瞬言葉を失った。宗ちゃんは今何て言った?由信の事は何とかするって……。
「由信の事、助けてくれるの……?」
「愛由がそう望むなら」
「宗ちゃん……ありがとう……本当にありがとう……!」
由信の事をもう一度宗ちゃんにお願いしなきゃと、ずっと考えてた。けど、昨日みたく宗ちゃんを怒らせ傷つける事になるんじゃないかと思うとなかなか切り出せずにいたのだ。それが、俺にとって一番気掛かりだったこの事が、こんな風に一気に解消されたのだから、あまりにほっとして全身から力が抜けて、頭の中も一瞬空っぽになった。俺は何度も何度も宗ちゃんにありがとうと言った。その度に頷いていた宗ちゃんが、ふいに寂しそうに下を向いた。
「……初めから、そう言ってあげればよかったんだよね。俺は間違えた。また、間違えた。今までもずっと、間違えてきた……」
「宗ちゃん……?」
「ねえ愛由、聞かせて欲しい。施設で俺が愛由にいたずらしなければ、犯罪者に仕立て上げたりしなければ、殴って無理矢理恋人にしたりしなければ……愛由は俺を好きになってくれてた?」
俺を真っ直ぐに見つめる宗ちゃんの、訴えかける様な表情に胸を締め付けられた。
酷いことも沢山された筈なのに、優しくして貰った事ばかり思い出す。宗ちゃんのどうしても満たされない虚しさや悲しみや苦しみに押し潰されそうになって言葉が出ない。
「俺は、ただ愛由が欲しかった。他に欲しいものなんてなかった。愛由さえいれば、何もいらなかったんだ。母親も、父親も、権力も、地位も名誉も何も。全て捨ててもいいから、愛由が欲しかった。愛由に、同じ様に愛して貰いたかった……ただ、それだけなんだ……」
力なく項垂れる宗ちゃんが余りに寂しそうで、悲しそうで、哀しくて泣きそうになる。だって分かるから。愛して欲しい人に愛されない苦しみがどれ程のものか。愛に飢えることがどれだけ孤独で寂しいのか、知ってるから。けど俺は────。
「ごめん宗ちゃん……ごめん……。宗ちゃんが苦しんでるの、分かるのに……凄く分かるのに……俺…………」
我慢できずに、パタパタと涙が零れて病衣に染みていく。
「愛由、泣かせてごめん。いっぱい泣かせて、ごめんね」
宗ちゃんの声が凄く優しい。俺のせいでこんなに大きな悲しみを背負っているのに、どうしてこんなに優しいの?どうしていつもみたいに怒らないの?どうして────。
「もう、愛由を泣かせたくないから。……さよなら、しないとね」
宗ちゃんが目を細めて、泣きじゃくる俺の頭を優しく撫でた。1、2、3回ゆっくり撫でられた所で、その手が離れて行く。
「……宗ちゃん、どこに……」
「愛由を、守ってあげる」
すっと立ち上がった宗ちゃんの俺を見る目はとても優しいのに、その表情はどこか堅く険しい。───胸騒ぎがする。
「宗、ちゃん……!だめ!死んじゃいやだ!」
考えるよりも先にそう口走っていた。宗ちゃんは振り返ったけど、何も言わなかった。そして、ただ優しい微笑みだけを残して、その姿をドアの向こうへ消した。
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