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強さ
愛由を誰にも渡したくない。お父様にも、土佐にも、誰にも。例え愛由が俺を愛してくれなくても、それでもいいからずっと俺の傍にいて欲しい。俺だけを見ていて欲しい。それなのに───俺は、いつからこんなに弱くなってしまったんだろう…………。
頭の中で何度も声がした。「愛由を連れて逃げろ」
愛由は俺が全ての力を失ったことは知らない。土佐を殺すと脅し続けていればずっと言うことを聞く筈。だから、愛由を連れて逃げるんだ。
何度も何度も声がした。けど、従わなかった。───従えなかった。
愛由が、俺よりも土佐がいいと言ったからだ。家族みたいだから、と。
土佐は、愛由に優しいのだろう。殴ったり怒鳴ったりもしなければ、嫌がる顔を見て喜ぶ性癖もなさそうだ。
────土佐が選ばれて当然だ。俺は、酷い男だった。愛由を泣かせる事ばかりしてきた。自分の気持ちと欲望を通す事ばかり優先して、愛由が望むものは何一つ与えてこなかった。まさか愛由が家族の愛を求めていたなんて知らなかったし……気付こうともしてこなかった。
平気で愛由に手を挙げていたあの頃の強さを、思い出せない。あの頃は愛由を殴る事で高陽感を得ていた。それは理解できる。例え今やったとしても、ある種の興奮を得るだろう事は想像に難くない。けど、出来ない。どうしてもできない。愛由を悲しませたくないから。愛由には、ずっと穏やかに、朗らかに笑っていて欲しい。何に代えても、守りたい。───そう思ってしまった時、俺は強さを失った。
「なんだ宗佑か」
ノックもせずに院長室に入ると、重厚なデスクに向かっていたお父様が、些か驚いたように顔を上げた。
「ノックぐらいしなさい。面会帰りか?ちゃんと愛由に媚びを売って来たんだろうな?」
ちらっと時計に目をやったお父様は、デスクで書き物の続きをしながら片手間に俺に問い掛ける。
「今日は来ないよう土佐を説得するのは大変だったんだ、上手くやってくれてないと困るぞ。明日から土佐は何があっても毎日来るそうだから仲良く、」
「愛由に別れを告げてきました」
「ん?……ああ、ヤれないのに傍にいるのは辛いか?それならそれでいい。3年後を楽しみにしていなさい」
「3年後なんかありませんよ」
お父様を否定する台詞を吐いた俺を訝しげに見上げたお父様の顔が、不満げなものから見た事ないレベルの驚愕へと変わってゆくのを、どこか他人事の様に眺めていた。
「な……何をしているんだ宗佑……」
「あなたの病院の、あなたの部屋で、あなたの息子が死んだとなれば、天城家の被る醜聞はどれ程のものでしょうね」
「し、」
「それとも、出来損ないの僕では、例え死んだとしてもあなた達の顔に泥は濡れませんか?」
「そ、宗佑、や、やめなさい。いいからそのナイフを、」
「よくない。僕から愛由を奪うと言うことは、僕に死ねと言っているのと同じだ。あなたが僕を殺したんですよ」
頸動脈に押し当てていたナイフを斜め前に引いた。一瞬火傷をした様な熱さと共にズクリとそこが痛んで、生温いものが溢れ出た。と同時に、これまた聞いたことのない声でお父様が叫んだ。
「宗佑ぇ!!」
お父様が駆け寄ろうとしてきたのを、左手で制して後ずさる。
「宗佑、頼むから……お願いだからやめてくれ……」
お父様はその場で両手を上げて、命乞いをするみたいに跪いた。
「そんなに、天城家が大事ですか?」
「違う!天城家なんか、そんなのは関係ない!天城がどうのじゃなくて、私はお前に死んで欲しくないんだ!」
「出来損ないなのに?」
「違うんだ……!あれはお祖父様にとってそうなだけで……私にとってお前は……宗佑は大事な息子だ!当然だろう!愛由の事だって、私はお前を助けてやるつもりで……!」
いつも威厳と威圧感ばかりのお父様のこんなに必死な顔も、必死な訴えも、見たことも聞いたこともなかった。目には涙まで浮かべて、こんなに情けない姿は───。
お父様からは気付かれないレベルで、ナイフを持つ手から力を抜いた。
ほっとした。愛由を守ると言いながら、自身の命を以てしても俺が愛由を救える確率は半々だと思っていた。けれど、お父様は俺を愛していた。俺は、賭けに勝ったのだ。
「愛由から、手を引いてくださいますか?」
「ああ!勿論だ!当然だ!愛由の事は、これまで通りお前が、お前だけが好きにするといい!」
ぱっと頭を上げたお父様は、藁にも縋る様な顔で瞳を輝かせながら言った。
───お父様はこんなに、俺に死んで欲しくないと思っているのか………。
「宗佑!!」
一瞬目の前が真っ暗になって、気が付いたらお父様に抱き抱えられていた。
「宗佑、死ぬなよ、宗佑……!」
命を脅かす程の出血ではない事は、医者であれば誰でも分かる筈だ。まして外科医の父なら当然。けど、お父様は真剣にそう言っていた。ぎゅーっと痛い程に圧迫される首元。父の必死で情けない眼差しがどうしてだか、心地よくて温かい───。
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