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病弱くん、はじめてのお留守番/その1

      嵐は突然やってきた。    ピンポーン、ピンポーン…… 「……ううん…………。」  ベッドの中でもぞもぞと体制を変える。  ピンポーン、ピンポーン……  ピンポーン、ピンポーン……    ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン……   「だぁぁあ! もう! うるっさい! かずくんが起きちゃうでしょーがッ!!」  遠くで、ドタバタと誰かが廊下を走る音がする。  むくりと上体を起こすと、僕は先程ベッドから一度起きたのにも関わらず、窓際の背もたれがないソファの上に寝転んで、また眠ってしまっていたようだった。朝日の眩しさに、目が開かない……。  僕が目をこすっていると、玄関の方から怒鳴り合う声が聞こえてきた。 「遅い! 早く支度をしろ!」 「なんでだよ! 今日は10時からだろ? てか、勝手に入ってくんな!」 「開始は10時からだが、お前が休んでいる間に衣装が変わったんだ! 早めに行って試着の必要がある!」 「はぁ? 聞いてねーよ!」 「休暇中は連絡してくるなと言っていたのはお前だろうが。」  ガチャ……  寝ぼけ眼の僕の前に現れたのは、ビシッと青いスーツを着こなした山下さんだった。朝からキマっているあたり、ちゃんとした社会人だなぁ〜と眺めていた。 「あ、かずくん起きちゃった? うるさくしてごめんね〜?」  優しく微笑むこーくんだったが、その後に「あーぁ、せっかくの天使の寝顔が……。」と残念そうな表情をした。 「おはようございます。」  山下さんが僕を見て、微笑むわけでもなく、無表情で挨拶をした。ただでさえ怖い顔なのに、不機嫌なのか朝から僕にインパクトを与えた。 「あ、あ、……おはよう、ございます……。」  僕だけがパジャマ姿でだらしない格好をしていることに恥ずかしくなってしまって、ソファの上で身体を小さくした。 「かずくん。朝ご飯できてるよ? こっちおいで。」  彼が僕の額にキスをして、僕の手を取った。山下さんに怯えながら彼に腕を引かれてその場を立つと、ダイニングテーブルの椅子に座らせられた。そして、彼は僕の隣のイスに座る。 「おい、早くしろ。」 「はいはい、わかってますよ〜。……かずくん、俺早めに出ないといけなくなっちゃった。ごめんね。お昼ご飯は冷蔵庫の中にラップして用意してあるから、温めて食べてね。お味噌汁も作ってあるから、いつものお椀によそって、レンジで温めてね。火は危ないから使っちゃだめだよ? わかった?」  もそもそとサラダに入っている葉っぱを頬張る僕は、彼を見上げて何度か頷いた。彼は満足そうに僕の頭を撫でる。 「夜はそんなに遅くならないから。ひとりにしてごめんね。寂しかったらいつでも連絡してね? 電話に出られなくても、絶対折り返すし! ……あ〜〜〜! 仕事行きたくないよぉ〜!!」  彼が僕を見つめると、彼の目がうるうるしてきた。さらに何かが爆発したようで、僕にぎゅうっと抱きついてきた。びっくりして、口に咥えていたレタスが零れ落ちそうになる。 「早くしろって言ってるだろ。わざわざ迎えに来てやってるんだぞ。待たせるな。」  後ろから山下さんの手が伸びてきて、僕から引き剥がそうとしているのか、こーくんの肩を掴んだ。 「やだやだぁ! かずくんとずっと一緒にいたいぃぃぃ!」  イヤイヤと首を振って僕に抱きついてくる。さすがに僕も彼を何とかしなければ、と、急いでレタスを飲み込んだ。 「だ、ダメだよ、仕事行かなきゃ……。」  日頃何もしていない僕が、身の回りの世話をしてくれている彼に、さらにこんなことを言う資格があるのだろうか、と思うと胸が痛む。でも、ほら、山下さんすごく怖い顔しているし……。  僕の言葉に、涙をボロボロと流すこーくんが顔を上げた。よし、もう少し頑張ろう、と心の中で拳をグーにする。 「ぼ、僕、ちゃんと……こ、こーくんが帰ってくるまで、待ってるから……。」 「ほんと? 俺のこと、待っててくれるの……??」  僕の言葉に、彼の表情は一変、キラキラした瞳で僕を見上げている。 「う、うん……。」  彼の純粋に向けられるキラキラに、やましいことは何もしていないのに思わず目を逸らした。 「わかった! 俺行ってくる! かずくん、いい子でお留守番しててね?」  彼はいつもの無邪気な笑顔を取り戻して、立ち上がった。後ろでは、山下さんが一安心、と言うように肩を下げて安堵のため息を吐いていた。 「あ、その前に……。」  こーくんがイタズラ小僧のような顔をしたかと思うと、僕の顎をくいっと持ち上げて、唇を重ねた。 「ん、んんっ!?」  突然のことに身動きができずにいると、その隙にこーくんの手が僕の後頭部に回ってきて、しっかりと抑えられてしまう。  ちゅっ……ちゅぷっ、ちゅぅっ……  彼のよく動く舌が僕の口の中に入ってきて、舌や歯等の口内を撫でた。そして彼に誘い出された僕の舌は、じゅるるっと彼に吸い上げられ、それが何とも言えない気持ち良さ。 「ふふっ、ご馳走様。これで一日頑張れるかも! じゃあ、行ってきます!」  とろんとした僕の頬を撫でると、ペロリと舌で自分の唇を舐め、目を細めると獣のように笑った。その表情にドキリとすると、次の瞬間にはもういつもの無邪気な笑顔を見せる。彼の表情は、本当にコロコロとよく変わる。  僕に背を向けると玄関に繋がるドアの前でもう一度振り返り、笑顔の横に手を上げて、指先をくいくいっと動かして見せると、また前を向いて歩き出す。後ろには山下さんが続いて、「失礼しました。」と軽く一礼し、ドアの向こうに消えていった。 「あ〜サラダ味だったなぁ〜。」 「お前、職場でそういうこと言うなよ。」  なんて会話がうっすらと聞こえてきて、顔が赤らむのが自分でとわかった。    騒がしい朝が過ぎ去って、僕ははじめて、ひとりで留守番をすることになった。とは言っても、小説家の僕とモデルの彼じゃあ働く場所が全然違うため、これからこういうことは多くなるだろう。こんな広い空間にひとりになることは何だか不思議な感覚だったが、直に慣れるだろう。  僕はひとりで朝食を食べ終わると、はじめて食器を自分で洗った。彼はさきに朝食を済ませていたのか、シンクの中には既に食器が入っていて、それを慣れない手付きで洗った。やっと僕も家の手伝いをしている。それだけで僕の心に満足感が溢れた。    どうせなら、時間も持て余していることだし、もっと何かしよう。  思い立って、まずはリビングや廊下を掃除機をかけて回った。いつもこーくんがやっている姿を見ていたから、掃除機の場所もわかった。自分の書斎や何にもない自室にも掃除機をかけたが、ただ、彼に関連する部屋は入って良いのかわからなかったので触れないことにした。同時に、僕にはわからない部屋がまだいくつかあったけど、そこも触れなかった。どうせ、物置とか、そんな感じなのだろうとしか思っていなかったから。こーくんは思い出の物とか、たくさん持っていそうだし。これは勝手な僕のイメージだけれど、きっと彼には数えきれないほどの友達がいて、他にも彼を愛してくれる人がたくさんいて、色んな人から色んな物をもらっているのではないかと思う。例えば彼のファンとか。  ファンと言えば、僕にはファンレターやプレゼントは届かない。加藤さんに、全ていらないと伝えてあるのだ。加藤さんは渋ったが、じゃあ私が保管しておきますから、先生の気が向いた時にお渡ししますね。と言ってくれた。でも、本当にいらない。それがきっと、僕が心から怯える他人からの評価なのだから。良いものでも悪いものでも、僕はできるだけ触れたくなかった。    次に洗濯物をどうにかしようと思った。彼はマメに洗濯をしていたのでカゴに入っていたのは下着やタオルくらいだったが、これからは自分で洗濯物を片付けられるようにならなければ、と試しに洗濯機を回してみた。ドラム式洗濯機ははじめてだったが、何だか僕の家にあった洗濯機よりも操作が楽だった。  洗濯物を洗っている間に冷蔵庫を開けてみた。実を言うと、この家に来て、この時はじめて冷蔵庫に触った。キッチンにはあまり立ち寄らないし、こーくんはいつも僕に何かしら飲み物を準備してくれていたので、必要がなかったのだった。冷蔵庫の中は綺麗に整頓されていて、僕のお昼ご飯と思われる料理が乗った皿は、わかりやすいように気を遣ってくれているのか、真ん中の段の一番手前にあった。今日の献立はほうれん草のお浸しに、自家製きんぴらごぼう、きゅうりとちくわのマヨネーズサラダ、ほっけ焼き、それから豚肉、玉ねぎ、豆腐の卵とじ。僕があまり食べないことを知ってか、量は少ないが、いつもおかずの量が多い。毎日材料を使い分けているようだった。誰かがご飯を作ってくれる有難みを実感する。前は毎日食べたり食べなかったり、食べたとしても買ってきたご飯にお湯を注いでお茶漬けにしたり、卵かけご飯で済ませたりしていた僕からすると、こんなに料理ができる彼は本当にモテるんじゃないかと思う。昨日見たテレビで言ってた。料理ができる男性はモテると。それに加えて顔も性格も良い。彼はきっと今日も誰かから求愛を受けているに違いない。    最後にひと仕事、と洗濯物を広い広いバルコニーに干した。今日、バルコニーにもはじめて出た。30階はどんなものかと思ったけれど、意外と静かだ。今日は天気が良い。  この家にはバルコニーが二つあって、洗濯物を干したバルコニーとは別に、普段僕がリビングから見ている窓の向こうに、実は木の床でできたバルコニーが広がっていた。あまり気にしたことはなかったけれど、広いプールも付いていたし、机とテーブル、ソファも置いてある。きっとここでは大人数を呼んでバーベキューとかできちゃうんだろうなぁ……。  こーくんの作ってくれたお昼ご飯を温め直している時、そういえばスマホどこやったかな……と寝室を覗いてみた。あまりスマートフォンを携帯する習慣がない僕はその日はじめてスマートフォンに触った。画面を開くと、LINEが28件も溜まっている。もちろん、僕にそんなにLINEを送ってくる友人はいないし、そもそもLINEに登録してある人は二桁もいかない。  確認すると、それは全て仕事中であるはずの、こーくんからのものだった。   『今、山下の車の中になう〜! もう寂しいよ〜!』 『山下不機嫌すぎ〜笑』  と、真顔で山下さんが車を運転している写真付き。   『あ、そろそろ朝ご飯に食べ終わったかな?』 『帰ったら俺が洗うから、食器はそのままでいいからね〜!』   『職場についたよ! マジで仕事中したくないなぁー。』 『かずくんは今何してるのかな〜??』 『あ、今日のスタジオはこんな所だよ!』  と、彼の顔と一緒に、ドラマに出てきそうなスタジオの写真。   『見て! 衣装の試着〜!』 『どお? かっこいい??』  誰かに撮ってもらったのか、オシャレな格好に身を包み、かっこよくポーズを決める彼の写真。   『この人、カメラマンのゆーじくん! いえーい!!』 『もう何度か撮ってもらってるんだけど、いつもチョーカッコ良く撮ってくれる〜!』  と、カメラマンの30代後半くらいの、髭を生やした男性との自撮りツーショット。彼は楽しそうにピースをしている。   『写真撮ってたら山下に怒られた!笑』  と、再び山下さんが不機嫌そうにこちらに何かを言っている写真。   『撮影終わり!』 『ゆーじくん最高! 良いのが撮れた!』  撮影した写真が三枚ほど。   『今日はこの後午後から別スタジオで撮影だよ〜!』 『昼飯は移動の車の中だって〜ガン萎え〜〜〜』   『かずくんとご飯食べたいよう!』 『あぁ〜かずくん何してるのかな〜?』 『寂しい!』 『早くスマホ見てくれないかなぁー』 『気付いてほしいなぁ〜』 『 (」゚Д゚)」オ────イ!!』       「ふふっ……。」  彼からのLINEはとっても愉快で、見ている僕も思わずひとりで笑ってしまった。特に山下さんの不機嫌そうな写真が良い。やっぱりこの人はなんだか好きだ。   『衣装とても似合ってます。写真も、すごくかっこいい。』 『僕は今、お昼ご飯を食べています。』    リアルでもSNSの中でも口下手な僕は、返事をしなきゃと思って、何とかそれだけ打って送った。すると、すぐに既読がついた。   『やった! かずくんから返事がきた!』 『嬉しい!』 『ご飯、ちゃんとレンジで温められたかな?』 『俺も今からご飯だよ〜!』 『今日は鮭とイクラの海鮮親子丼!』 『冷たくても食べられるっ!』  車内で弁当を持って自撮りをする彼。わざとなのか、横向きにアングルを変えているので、運転席に座る山下さんも写り込んでいる。今度は特に不機嫌ではないのか、ただ真顔で車のハンドルを握っていた。    彼からすぐに、しかもたくさん返ってくる返事を見ているのが楽しくて、LINEを開いたままお昼ご飯を食べていた。ひとりだけれど、ひとりじゃないような気分になれる。    〜〜〜〜〜〜♪    すると、急に画面が切り替わって、かずくんから着信がきたと知らせる画面になった。 「えっ……!」  僕は慌ててスマートフォンを手に取ると、通話ボタンをスライドして、耳にあてがう。 「あっ、かずくんっ??」  電話の向こうから、こーくんの声がした。 「聞いてよ〜! 山下がね、また怒るんだよ〜! 俺いじめられてるよぉ〜!」  彼の元気で騒がしい声が、静かな室内に響く。僕は、そういえばスピーカーという機能があるのだ、と思い出して、スピーカー状態にして机にスマートフォンを置いた。 「ど、どうしていじめられてるの……?」 「俺何もしてないの〜! かずくん助けて!」 「うるせえ! お前が車に乗った途端に文句ばっか垂れるからだ!!」 「あはははっ! 山下の方がうるさいんじゃなーい?」  仲が良さそうだなぁ……。  二人の会話に入ることができない僕は、苦笑しながらきんぴらごぼうを頬張った。 「そうだ、これから行くスタジオの近くにさ、俺の大好きなカフェがあるんだぁ。そこのホットサンドがすっごく美味しくて! もしかずくんがサンドイッチとか嫌いじゃなかったら買っていくけど、どうかな?」 「あ、うん……サンドイッチ、食べられるよ。」 「じゃあ俺のオススメいくつか買っていくから、夕飯はそれにしようね! あぁ〜かずくんの声聞いたら早く帰りたくなっちゃったよぉ〜! 山下ぁ〜、このままいつものカフェ寄って、今日はもう終わりで良くね〜??」 「ケンカ売ってるのかお前は。ほら、もうすぐ着くぞ。」 「うぅぅ……じゃあかずくん、もう切るね。寂しくないかな? 俺は寂しいよぉ〜。できるだけ早く終わらせて、早く帰るからね!」 「う、うん……待ってるね……。」 「か、かずくん〜〜〜! 俺、お仕事頑張るからねぇ〜〜〜!」  彼がまた泣き出しそうな声を出した。この台詞は結構使えるらしい。 「じゃあね、愛してるよ。」  その言葉を最後に通話が切れて、再び静寂が訪れた。僕は、シーーーン、と静まり返る部屋の中で、何となくテレビをつけた。                僕はお昼ご飯を食べ終わって、また食器を洗って、しばらくテレビを眺めた。しかし、ふと時計を見たら丁度15時になるところだ。彼が帰ってくるまで時間があるだろうし、次にまた何かしようかと家の中を歩き回った。  結果、僕が行き着いたのはお風呂場だった。お風呂掃除も何度もしてきたし、せっかく綺麗なのだからこの清潔感を保ちたいと思って、広い広いお風呂場の掃除を始めた。お湯もすっかり抜けていたので、浴槽の中もモップで隅々まで擦った。時間をかけて洗ったは良いものの、次は泡を流すのが大変だった。シャワーが浴室の奥まで伸びない。どうしたものかととりあえずシャワーが伸びる範囲内で泡を流した。流し終わって、本当にどうしようと一度脱衣場に出てくると、壁に電気を付けるボタンに加えて、何やら用途のわからないボタンがいくつか付いているのを見つけた。試しに一つ押してみると、何と、浴室の照明が薄暗くなり、紫色に照らし出されたのだ。夜にこの照明にすると、浴室の大きな窓から見える景色に加えて、とてもロマンティックかもしれない。また別の人ボタンを押してみると、赤や青、オレンジ、水色、ピンク、緑等に変わった。また、青い照明のまま、クルクルと回るタイプのスイッチを触ると、何と辺り一面に星が浮かび上がってきたのだ。 「す、すごい! プラネタリウムだ……! はじめて見た!」  僕は思わず興奮して、僕にしては比較的大きな声を出した。今日はこれで風呂に入りたい……! そんなことを考えながらすっかり面白くなった僕は、さらに少し離れた位置にあるスイッチに手をかけた。こちらもクルクルと回すタイプのスイッチで、ワクワクしながら思いっきり回した。    シャアアアアァ……  途端に、天井から大量の水が落ちてきた。その様子を脱衣場から見ていたボクは、僕は慌てて開けっ放しだった浴室のドアを閉める。水が、まさにシャワーのように天井から噴出されていて、見ているとこのシャワーが浴室の泡を洗い流してくれていたのだ。シャワースイッチの横を見ると、Hot、Coolと手動のメーターで温度を調節できるようだ。ちなみに今は半分よりも少しCoolに近づいていて、少し冷たいぬるま湯が流れているようだった。  僕は、なるほど、なるほど……と感心しながら流し終わった浴室の中へ戻って、モップで所々の水気を取り、鏡を拭いた。    風呂場の掃除がひと段落すると、浴槽に湯を張るお願いを機械にして、上機嫌でリビングに戻った。頑張ってあの広い風呂場の掃除もして、なんと新しい発見もできて、満足感と疲労感が同時に押し寄せてきた。  しかし、なんせ8月。たくさん汗をかいた僕は冷蔵庫に冷やしてあった麦茶をコップに注いでソファに座った。こんなに身体を動かしたのはいつぶりかなぁ……。麦茶を口にして、すっかり疲れ果ててしまった僕はテレビを見る気にもならなくて、ソファの端に寄せられていた四角くてふわふわなクッションを枕にして、身体を寝かせた。                

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