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病弱くん、はじめてのスランプ/その2
それからも、こーくんが帰ってくるまで書斎に籠ってペンを握り続けた。
彼が帰ってくる音がすると、昨日少し心配させてしまったこともあって、僕は書斎から出て彼を出迎え、その日はもう書斎には入らなかった。
彼は寝る前に、僕の十二作目、『竹藪』についての感想を述べた。
「なんか、竹藪って檻みたいだ。」
彼が風呂から上がり、僕がリビングから空を見上げていると、外に出ようよ、と誘ってくれた。もう何度か二人でバルコニーに出ているが、それは決まっていつも、寝る前の涼しい夜のことだった。それでも湯冷めしないようにと、彼は僕の分のブランケットを持ってきてくれて、人肌のホットミルクも用意してくれるのだ。
「主人公は、自分を檻に閉じ込めてた感じがしたなぁ。」
バルコニーのソファに並んで座る。オシャレにライトアップされているバルコニーは、夜空の下で薄暗い空間を演出していた。
「……そうかもしれないね。」
僕が曖昧な返事を返すと、彼は優しく微笑んだ。
「今回は、主人公の心の描写が少なかったよね。でも、それが逆に面白かったよ。」
『竹藪』は戦時中の日本で、森の竹藪の中にひとりで暮らす青年の話だった。青年に両親はおらず、もともとは祖母と暮らしていたのだが、その祖母も病気で亡くなり、完全に身寄りがない。山を下れば小さな村があったが最低限の物は山の中で採れるため、滅多に人里に下りることはなく、友人や知人もない。稀に山を登って来る人がいる。彼は、ある時山に入って道に迷ったよそ者に見つかり、道を案内する。そのよそ者も若い青年で、隣の村が盗賊に襲われ、逃げてきたのだと言う。よそ者は村に下りるとその村に住まうようになり、時々山に入っては主人公にお礼だと言って山では採れない米や、衣類を置いていった。そのように徐々に距離を詰めてくる青年との話だ。
ある程度話すようになっても主人公は山には下りない。むしろ、竹藪の中から出ることすら少ない。村ではこの深い山に住んでいるということで噂になっているが、同時に、山で遭難する人々は皆、この者に殺されているという噂もあった。青年は、そんなことはない、この主人公は優しい人間だと言い張っていたが、その噂は真実だった。二十年前、主人公の祖父は戦争に行きたくない一心で祖母と共にこの山の中に住むことを決めた。その後、山に入った二人の若い子連れのカップルが戻らなかった。その後もぽつりぽつりと人が消え、遭難したのだろうと言われた。しかしその最初の男女こそ、祖父母の息子夫婦で、主人公の両親だった。息子が産まれたことで祖父母に会いに行った二人を、祖父は自分を出征させに来た者なのだと勘違いし、山に仕掛けをして誤って殺してしまった。祖父はこの頃にはもうすっかり頭がおかしくなって、その後も何人も人を殺してしまっていたのだ。それは祖父が森に生える幻覚性のあるキノコを気に入って食べ続けていたせいだった。祖母は悲しみに暮れつつも主人公を育てた。祖父はやがて足もおぼつかなくなり、気づけば住処の周りにある竹藪の中で死んでいた。当時主人公は16になっていて、祖父の死体を、以前から祖父が殺した人々を埋めている自然が作った大穴の中に棄てた。
それから二年後、主人公は青年に出会う。その二年間、主人公は祖父の代わりに人を殺し続けた。幼い頃から祖父が人を殺める姿を見ていたため、彼にとってはそれが当たり前であって、この山に人を入れないためだった。この山に人を入れないというのは祖父の口癖で、祖父や山、自分自身を守るためだと聞かされていた。しかし、祖母の死に際、人を殺すことはいけないことだと、始めて聞かされた。それ以来、彼は人殺しを止め、できる限りを竹藪の中で過ごしていたのだ。心優しい青年は主人公に歩み寄り、ある時、村に下りてこないかと誘う。主人公が道を示してくれた村は、とても暖かくて、良い所だと。それでも主人公は断固として山から出ない。
しかし、村人たちは山の中の殺人鬼に恐怖していた。だから青年の後をつけ、主人公を殺した。主人公は自分が襲われても何の抵抗もせず、竹藪の中で死んでいったのだった。そして、残された青年は主人公を殺す手引きをしたのと引き換えに、その村で暮らすことを許可される描写があった。
我ながら、後味の悪い作品だったのではないかと思う。こんな物語を面白いと言ってくれる彼は、一体何を思っているのだろうか。
「ほ、本当に、面白かった……?」
「うん、もちろん! 主人公は、多分とっても心優しい人だったんだよね。人を殺すことに、本能的に嫌悪感を抱きつつも自分の育ての親を守るために我慢していて、でもそれが世の中で一番悪いことをしている、って大好きなおばあちゃんから死んじゃう間際に知らされて、きっとひとりになってから辛かっただろうね。……って俺は思うけど、何せ描写がないから、何を思っているのかわからなくて、色々想像しながら読めたよ。最後の結末も、あぁ、こうやって片付くんだ、って妙に安心したかも。竹藪が主人公を殺してしまう囲う檻みたいだったから、ずっとその中で罪の意識に苛まれていたとしたら、人殺しの自分が誰かに殺されるっていうことを、彼は待っていたのかもしれないって思った。」
「そっか……。」
何とも言えない気持ちになって下を向いた。誰かに自分の作品を色々と言われるのは、なんだかくすぐったい。そして、少しの安心感。
しかし、その後から、僕の心は大きな闇に覆われた。その恐怖に、今にも身体が震えてしまいそうだ。
それに耐え、太股の上で拳を固く握りしめていると、肩に暖かい感触が。
「眠い? もうそろそろ寝ようか?」
ハッとして彼を見上げると、穏やかな表情で僕の顔を覗き込んでいた。僕を愛おしそうに見つめている彼は目が合うとにっこりと微笑む。僕を抱く手が、優しく肩を撫でる。
「あ、いや…………うん。そうだね……、君もあまり寝ていないんじゃない……? もう、寝ないと……。」
「あははっ、ありがと。実を言うと睡魔がやばいんだ〜。」
こーくんは立ち上がると、「ん〜〜〜!」と背伸びをした。僕はその背後でホットミルクを飲み干すと、立ち上がって先に室内に戻ろうと歩き出した。
「はぁ……。」
洗濯にはだいぶ慣れてきた。最初は全てにおいて精一杯で洗濯機が回っているだけで気が気じゃなかったが、今ではこうして小説の構想を練りながら洗濯ができるほどになった。
取り出した洗濯物を抱えてバルコニーに向かう。端からボロボロと収まりきらなかった服が落ちていくのが視界の端に見える。
「あっ……あぁぁ〜……。」
足下の靴下を拾うと、また反対側から何かがバサッと落ちた。もう諦めて、先に抱えている洗濯物を持って行って、床に落ちた物を拾い集めた。慣れてきたと言っても、こういう所は僕の生まれた時からの性質なのでなかなか直らない。
「はぁ……。」
本日何度目かのため息を吐く。
僕は今、執筆活動の真っ最中だが、実は良い構想が何も思い浮かばない。僕の新作が発売されてこーくんが自室でに籠って読み耽っているあの時から、ずーっと次のストーリーのことばかりを考えているが、全くと言っても良いほど、何も頭に思い浮かばないのだ。それどころか、今までどうやって物語を書いていたのかもわからなくなってしまっていた。
書斎に籠って、パソコンを付けて、画面を眺めているだけ。ノートを開いて、シャープペンシルを握って、芯を出して、何でも良いからノートに書き出そうと思って、ペン先を紙面に押し付けて、そして離して、もう一度付けて、離すだけ。時折紅茶に口をつけて、ため息を吐いた。
正直、どうしたら良いのかわからない。今まで、ノートを開いてペンを握れば、頭がスーッと冷静になって、感覚的に物語がどんどん展開された。今まで書き連ねてきた言葉を繋げて、少しのヒントでもその何倍も広大な物語を紡ぐことができた。それが、頭がすっかり真っ白で、何も出てこない。ヒントになるようなものも、ストーリーのひと欠片でさえも。
最初は気のせいかと思っていた。少し休みすぎてしまって、感覚が戻らないのかと。でも、初日にわかった。ここまで何も思い浮かばないなんて、気のせいではない。本当に、僕の頭は何も生み出せなくなってしまっていることが、自分でもよくわかる。こーくんが僕の『竹藪』のことを楽しそうに話していると、胸の奥がズキズキと痛んだ。『竹藪』が世に出たあの日の夜、僕はこーくんの隣で、彼に背を向けて考えた。眠ったフリをして、わざと寝返りを打って、暗闇の中で目を開いた。
僕が書けなくなったら、彼はどう思うだろう。悲しむかな。心配するかな。いや、そうじゃない。
きっと、僕のことをもういらないと言うんじゃないかな。そうだ。だって彼は小説家としての僕が好きなんだ。新作だってとても喜んでいたし、その次も楽しみにしてくれている。ということは、やっぱり何も生み出せない僕はいらない。わざわざお金をかけてくれたって何も返せないし、それなら一緒にいる必要もない。僕は捨てられてしまうんだ。
そう思うと、恐怖が僕を襲った。人に捨てられること、拒絶されること、罵られること。僕が大嫌いなこと。だから他人は怖いと思うし関わりたくないのだ。でもその全てが振りかかろうとしている。想像しただけで身体が震えて、頭が真っ白になるのだ。普段は優しいこーくんも、本当に怒ったらどれほど怖いだろう。暴言を浴びせられるだけではない。叩かれたり、痛いことをされてしまうんじゃないか。彼が僕に触れた、あの夜の、もっと先までしてしまうんじゃないか。きっとどんなに僕が嫌がって抵抗しても恐らく彼は止めてくれない。きっと彼の強い力に押し潰されて、泣きながら僕は声を殺して耐えるしかない。
僕の良くない妄想は夜通し続いた。しかし明るくなった頃、太陽の光に安心して少しだけ眠ったのだ。
書斎に戻って、またシャープペンシルを握って、真っ白なノートを眺めた。
どうしたらいい。どうしたらいいのかな。僕はどうしたらいいのだろう。
いつの間にか頭の中は物語を練ることを止めて、ぐるぐると迷子のように混乱するばかりだった。
〜〜〜〜〜〜〜♪
どれくらい経ったか、突然スマホへ着信を知らせる音楽が元気良く鳴り響いた。
見ると、そこには救世主のような名前が表示されていて、僕は少し間を空けて通話ボタンに触れた。
「もしもし……?」
捻り出した声が震えている。
「もしもし、お久しぶりです、先生。今、お時間宜しかったでしょうか。」
優しい、落ち着いた声色。母親のような柔らかさに、僕の世界は少し明るくなった。
「う、うん……。」
「それは良かった。新作の『竹藪』はなかなか売れているみたいですよ。やっぱり神山 宏輝との宣伝効果は絶大です。頑張ってみて正解でしたね。先生は、お休みはいかがでしたか?」
「うん…………。あの……。」
僕は不安が溢れ出して、今にも泣き出しそうだった。いつもの調子で話す加藤さんに、凝り固まっていた心が優しく解されて、胸が熱い。ずっと言えなくて、ようやく見つけた光のようだ。
「先生、どうかなされましたか? 具合が悪いのでしょうか。」
僕の異変に気づいたようで、先程までの嬉しそうな声とは一変、何か一大事なのかと僕を案ずる気持ちが伝わってくる。
何か話さなきゃ。何か返さなきゃ。いや、何かじゃなくて、ちゃんと伝えなきゃ。
「か……け、ない……。」
小さく小さく、それでもきゅうきゅうと締め付けられる感覚の喉から捻り出した。
「はい……?」
「かけ、ない……。」
「〝かけない〟……? 先生……?」
「書けないんだ、僕……。何も、出てこなくて…………どうしよう、どうしよう……。」
言葉にした途端、色々な何かが込み上げてきた。とにかく黙っていられなくて、「どうしよう……。」を繰り返した。
「先生、大丈夫、落ち着いてください。」
彼女は彼女なりに無言で反応を示していたが、間を空けて僕に優しくゆっくりと言い聞かせた。僕はその言葉に黙って、でも頭の中ではバスケットボールが跳ね回っているようだった。
「……書けない、とは、小説を、ということでしょうか……?」
僕を気にかけていても、流石の彼女も驚いたようでその声からは動揺が感じとれた。
「そう……そうなんだ…………そう……。」
相手が目の前にいるわけではないのに、うんうん、と何度も首を縦に振る。
「そう、でしたか……原因は、何となく感じていたりしますか?」
「わか、らない……どうしてなんだろう……。この2日間くらい、考えても、何も出てこなくて……普段ならこんなことはないのに……話の構想くらい、一日で思いつくのに…………あぁ、どうしよう……。」
僕はまた、どうしよう、を繰り返し始めた。
「先生、大丈夫です。仕事の方は私にお任せください。とにかく先生はなぜスランプに陥ってしまったのかを解明しつつも、もう少し休んでいてください。既にあがっている新作についても出版はまだ当分先ですから。どうか、焦らず。ご自分のペースで構いませんよ。」
彼女の優しい声に、僕は電話をしているにも関わらず、無言で力なく頷いた。
彼女は慣れているのか、冷静に対応してくれていて、つられて僕も少しずつ落ち着きを取り戻してきたようだ。
「あの……ご、ごめんなさい……。」
「いいえ、構いませんよ。時にはこういうこともあります。それより、神山さんにはご相談されていますか?」
「い、いや……なにも……。」
「そうでしたか。どんなに自分で考えてもわからない時は、たまには他人を頼ってみてください。自分とは全く別の観点から何か気づかせてくれるはずですよ。それに、神山さんは先生のことが大好きですからね。」
加藤さんがクスッと微笑んだのがわかった。彼女は僕のスランプを、それほど重たく捉えてはいないのだろうか。
「わ、わかったよ……気が向いたら。」
「ええ。とりあえずしばらく様子を見ましょう。先生、執筆活動に向き合うのはたまにで良いのですよ。今なら書ける、と思った時だで良いです。」
「……うん。それじゃあ。」
「はい。またご連絡いたします。」
通話を切ると、スマホを机の上に置いた。
彼女は他人に相談してみることも良いと言っていたけど、こーくんに相談なんてできない。ましてや、彼の周りの人たちにだって。どこからこーくんに伝わってしまうかどうかもわからない。加藤さんは当分の間はこちらに来ないし、あの感じだと僕のことをそっとしておいてくれるだろう。こーくんにも、しばらくは連絡を入れないだろうし……大丈夫。
「ただいまー!」
いつものように元気そうなこーくんの声がする。いつの間にかずいぶんと時間が経っていたらしい。
「かずくーん?」
リビングから僕を探す彼の声がする。早く行かなきゃ。
僕は書斎のドアノブに手をかけ、それから、大丈夫、大丈夫……と心の中で唱えて深呼吸した。
そう、大丈夫。彼はいつも通りなんだ。僕だって、いつも通り振る舞えばいいんだ。
「……おかえり。」
リビングに向かうと、こーくんがスーパーの買い物袋をダイニングテーブルに置いていた。
「あ、かずくん! もう、どこにいたの? 返事がないから心配しちゃったよ。また書斎にいたんでしょー?」
僕を見つけるやいなや、彼は僕の方に近づいてきて愛おしそうに頬を手で撫でた。
大丈夫、大丈夫……。
「う、うん……そうなんだ。つい、夢中になってしまって……。」
彼の様子を伺うように上目遣いで恐る恐る見上げると、彼はやさしく微笑んでいた。
「ううん。いいんだよ。むしろ、あの部屋を気に入ってくれたみたいで嬉しい。でも、たまには息抜きもしてね。」
「わかった……。」
僕が頷くと、彼は満足そうに笑って、「あ、いっけね。アイス買ってきたんだった。」と僕から離れて2つあるうちの買い物袋をひとつ手に取ると、小走りでキッチンの方へかけて行った。
「そーだ。かずくん、今日は肉じゃが作るよ〜♪ 食べられる?」
「だ、大丈夫……それと、ぼ、僕も手伝うよ。」
買い物袋の中身を見ると、じゃがいもや肉が入っていた。それから肉じゃがには使わないようなレタスやきゅうり、味噌なども。食材がたくさん入った袋はとても重くて、非力な僕は腕をぷるぷるさせながらキッチンへ運んだ。
「あぁ、ありがと! 重かったでしょ? 」
キッチンへ入ると彼はひょいと軽々僕の腕から買い物袋を取り上げた。僕のことだって抱き上げてしまう彼のことだから、この程度、大したことはないのかもしれない。
「お腹空いてない? もう少し待っていられる?」
「う、うん……まだ大丈夫。」
どんなに悩み事があっても空腹にはなるようで、言われて意識してみると確かにお腹が空いていた。昼間はあんなに混乱して加藤さん加藤さんに情けない姿を見せていたのに、何だか恥ずかしくなってしまって大人しくリビングのソファへ退散した。僕の身体は以前よりもすっかり健康的になっていて、実に呑気なものだ。書けないこと以外は。
あぁでも、こーくんといると、不思議とひとりでいるより安心できた。時折僕を恐怖心が支配するけれど、彼が他愛ない話で僕に話しかけて笑ってくれるのでその笑顔につられて僕の心も少し晴れやかになる。彼が誰からも愛されるイケメンだからだろうか。それとも、モデルだから? 何にせよ、今日は加藤さんに話したことで僕の中で溜まりに溜まっていたものが少し吹き出してしまって、そのおかげか、気持ちがいつもより楽だった。こーくんが帰ってきてから眠るまでの時間、僕はきっと上手く過ごせていたと思う。
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