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病弱くん、はじめてのスランプ/その3

        「かずくん、もう遅いよ。そろそろ寝ない?」  ドアの向こうから、彼の声が聞こえてきて、僕は我に返った。        あれから1週間が過ぎた。  僕は未だに書けない。        今日も書斎に籠って、いつまで経っても動かないシャープペンシルを握り、ノートを開き、意味もなくパソコンの画面を開いて、いつもの言葉を小さく呟いていた。  机上のデジタル時計を見ると、23:48。  夕飯を食べ終えて風呂を済ませたのが確か20時頃。もうこんなに時間が経っていたのか。 「……そ、そうだね……。」  力無くペンをノートの上に置いて、席を立った。  書斎のドアを開くと、寝巻きに着替えたこーくんがドアの横の壁に寄りかかって僕を待っていて、僕を見て、優しく微笑んだ。彼は僕が書斎に出入りするようになってから少し経って、書斎のドアを開けようとはしなかった。恐らく、僕が本格的に執筆活動に励んでいると思っているのだ。だから最近は、ノックをしてもドア越しに声を書けるだけだった。  僕が長時間書斎に籠ろうが、無理はしないでねと言うだけで、それを咎めたりはしない。きっと彼は僕が紡ぐ物語に期待をして邪魔をしないようにしている。彼は本当に僕の小説が好きだから、僕がいない間は『 竹藪』を読み返したり、その影響で歴代の前作たちを読み返すまでしていた。そんなに面白いだろうか。僕の話は。    寝室に向かうと、ふたりでベッドに横たわった。ふと、この習慣がバカバカしく感じた。  僕は今まで独りだったんだ。好きな時にご飯を食べて、好きな時に寝て、好きなだけ物語を紡ぐ。それでやってきたんだ。今更誰かに合わせて生活するなんて……。  ハッと我に返って、僕はなんてことを考えてしまったんだと思った。衣食住を揃えてもらって、それもこんなに良い待遇で。  いたたまれなくなって彼に背を向けると、背中に暖かい温もりを感じた。こーくんの大きな体が、僕の細い身体を優しく包み込む。 「かずくん、大丈夫? 色々考えてた後に急に寝るなんて、やっぱり難しい?」 「だ……大丈夫。」 「ふふっ……、でも、加藤さんからも、かずくんにちゃんとした人間らしい生活をさせてあげてくださいって言われてるしさ。ゆっくりで良いから、ちゃんと頭を休めてね。それも小説家の仕事の内だって、加藤さん言ってたよ。」 「………………うん……。」  小さく返事を返した。その日の会話はそれきりだった。  それでも僕はちっとも寝付けやしない。  加藤さん。彼女にはもうしばらく執筆活動を休むように言われたけど、何もしないではいられなかった。家事をしていても頭の中は常に不安や焦り、恐怖でいっぱいだったのだ。今ではもう、書斎に籠っても執筆活動とは言えないような時間を過ごすだけ。  こーくんとの会話も減った。最低限、朝起きて少し話して、彼が帰ってきて出迎えて、夕食ができるまで書斎で過ごし、夕食の後はすぐに風呂を済ませ、髪を乾かしてもらうとすぐに書斎に入った。そして今日のように日付が変わる前に彼が僕を呼びに来る。彼は相変わらず仕事の話をしたり、雅人くんや啓太くんとの話、山下さんのムカついた話などを楽しそうに話した。僕の執筆活動についてはあまり触れることはなかった。時々、調子はどうだと聞いてきても、すぐに僕の身体の心配した。でも、僕にはわかる。僕や僕の書いているであろう小説への期待でいっぱいだというような表情を、いつもしているのだ。そうすると、僕の身体にグサグサと矢が刺さったり、鈍器のようなもので頭を強く叩きつけられるような感覚になった。目眩がして、食欲が失せるのを感じながらも必死に我慢して、「うん……大丈夫。」と返した。    自分でも、かなり追い込まれているのがわかる。でも、こればかりは誰に助けてもらえる問題ではない。僕の問題なんだ。この世界はどこもおかしくなんてなっていない。僕がおかしくなってしまっただけなんだ。  きっとこんな風に壊れてしまった僕のことを好いてくれる人なんていない。書けなければこーくんの期待も、加藤さんの期待も裏切ってしまう。僕は用無しになって、みんなから嫌われて、捨てられて、この家にもいられない。帰る場所もなく、街中を彷徨って、人知れず死んでいくことだろう。  こんなに暖かい温もりだって、感じる必要はなくなる。それが良いことなのかは僕には分からないけど、今は彼の存在を感じるだけで苦しい。どうして僕は彼と一緒に居るんだっけ。どうして彼は僕と一緒に居るんだっけ。どうして僕は、彼と一緒にいないといけないんだっけ。どうしてこんなに怖いんだろう。                 「今日もYukiちゃんとの撮影だったよー。早く終わんないかなぁ。」  箸を持つ手を下ろして、目の前の彼が呟いた。 「撮影中はずーっとかずくんのこと考えてるんだぁ。そしたら、最近カメラマンの人たちがみーんな褒めてくれるんだ。」 「そ、そうなんだ……。」  にっこりとはにかむ彼を少し見て、すぐに視線を逸らした。  少しいつもと違ったかな? ちゃんといつも通りにしないと……。  あれ、『いつも通り』ってなんだけ……? 「あぁ、あとね、啓太が今度沖縄で撮影なんだって! 良いよねぇ、羨ましい! あいつぜぇ〜ったいに真っ黒焦げになって帰ってくるよ。前も海に行って焼きすぎてマネージャーに怒られてたからね。全く、山下だったら、プロ意識が足りないとか言って殺されてるところだったよ。うちの山下を貸し出してやりたいくらい!」  そう言いつつも、想像して面白そうに笑っている。  何がそんなに面白いんだろう。 「でも絶対にお土産買ってこさせようね。そーだ、俺が沖縄で撮影になったらかずくんも一緒に行こうね!」 「うん……そうだね。」  無意識に口が動いた。すっかり味のしなくなった食べ物を機械的に口に入れ、咀嚼した。  笑いかけられる度に、身体が震えそうになるのを必死に抑えた。わからない。本当は彼はどう思っているのだろう。早く書き上げろとか、思っているのかな。もしかして、『竹藪』はそんなに面白くなかったとか。もうそろそろ捨てようとか。僕は役立たずだとか。実はもうとっくにこれっぽっちも僕のことなんて期待していなくて、この後僕に乱暴をしてゴミのようにすてるんだろうか。  怖い、怖い。彼に捨てられるのも、誰に捨てられるのも。 「ご、ご馳走様……。」 「あれ、もういらないの? ずいぶん残ってるみたいだけど。もしかしてそんなにお腹空いてなかった?」 「まぁ……。」  僕は箸を置いて、立ち上がった。 「大丈夫? 具合悪いの?」 「そんなことないよ……あの、書くのに夢中で……遅かったんだ、お昼。」 「そっかそっか。じゃあ残りは冷蔵庫に入れておくよ。お風呂入る? お湯は張ってあるよ。」 「うん……ありがとう……。」  昼食なんて、もうどれくらい食べてないだろう。  朝食だって。  僕は風呂を済ませて、いつも通りに書斎に籠った。               『先生、次はまだですか?』    ま、まだなんだ……まだ、書けなくて……。   『読者をいつまで待たせるつもりなんですか。もうこれ以上は、こちらも待っていられません。先生とはもう、これでおしまいですね。』    え……そんな……。   『だから神山さんにも捨てられるんですよ。』    暗闇の中、加藤さんが冷たい表情を睨みつけると、背を向けて闇の中に消えていってしまった。  そして後ろを振り返る。   『かずくん、こんなつまんない話ばかり書いて、ほんっと根暗だよね。本人も、期待を裏切らないくらいの役立たずだよね。』    彼が僕を蔑むような目で見下ろし、僕の身体が硬直した。   『金になりそうだし、性欲処理にしようかと思ったけど、そんなガリガリな身体じゃ勃つモンも勃たないし、家事もろくにできない、役に立たない。こんなにしてあげてるんだから、何か返そうと思ったりしないわけ?』    僕は……君に返そうと、思って……    身体の力抜けて、地面に崩れ落ちた。  すると、そこには黒い泥が広がっていて、僕の身体を包んだ。   『ちょっとは良い話だど思ったんだけどさ、正気に戻ってよく見ればクソみたいな話だった。最悪、裏切られた気分。お前なんて生きてたって仕方なくね? 死んじゃった方が良いって。』    いつの間にか、僕と彼の周りには白い人型のギャラリーが大勢いて、口だけの顔で僕を見ていた。大きな口を開いては、僕に罵詈雑言を浴びせかける。身体はどんどん泥に呑み込まれいく。    そんなことわかってる。  でも、違う、違う、僕を嫌わないで、捨てないで。  僕を、捨てないで……!                   「かずくん、クマが酷いね? 眠れてないの?」  朝日が射し込むベッドの上で僕の顔を覗き込んだ。 「き、今日はちょっと……き、昨日、昼寝したから……。」  僕はしばらく、浅い眠りの中で寝たり起きたりを繰り返していた。決まって、誰かに嫌われ、罵られ、捨てられる夢を見て目を覚ますのだ。そして隣で眠るこーくんを見て、夢だったかと安堵しつつも、また恐怖でここから逃げ出したい衝動に駆られる。しかし僕にはそんな勇気もない。 「そっか……じゃあ、今日はもうちょっと寝ていたら? 朝ご飯は用意しておくし。ね? 最近とっても頑張ってるみたいだし、少しは休まないと。」  そう言って、彼が僕の額にキスをした。横になっているはずなのに、それだけで頭がクラクラする。 「じゃあ、先に行ってくるよ。今日は雅人と仕事なんだぁ。また、連絡するね。」  彼はにっこりと笑って、部屋を出た。  眠る気にもならなくて、眠気もなくて、天井をぼーっと見ていた。するとがちゃりと音がして、彼が出て行ったのがわかった。  ひとりきりになれたことに、安堵した。それでも僕の戦いはここからだ。  重たい体を起こすと、そのまま書斎に向かった。    わかっていた。きっと今日も書けない。  こんな僕を知ったら、彼は僕を嫌うだろう。  誰にも嫌われたくない。こんな我儘でどうしようもない僕には、意地を張ってこうするしかないんだ。  本来ならとっくにここにいる資格なんて失っているのに、こうして嘘を吐いて居座り続ける自分が嫌いだ。ひたすら隠し続けるだけで何も出来ない。嘘が積み重なるだけ。身体に重くのしかかる。僕は人差し指の第二関節と、第三関節の間辺りをガジガジと強く噛んだ。        〜〜〜〜〜♪  ふと、どこかで、メロディが鳴る音がした。  鳴り止むと、ポコン、ポコンと聞いた事のある音がした。  音がした、気がした。        何だっけ?                  /

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