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第65話 W

*  使われていない倉庫で、桐生は蹲った。空き缶が散乱し、ここには不釣り合いなレンガが置いてある。そして、アルコールや煙草の匂いが染み付いている。電気は点いていない。月の光が、壁の上部にある大きい窓から差し込んだ。  砕けたSDカードを手で弄びながら、ぼーっと考える。それはもう修復不可能であることは分かっていた。頭の中には以前付き合っていた女性のことばかりが浮かんでは消えた。派手さはないけれど素朴で、心優しい人だ。ボロっと熱く、大きな涙が頬を伝った。明日は、自分の命が危険に晒されるかもしれない。そう思うと、胃がきゅうっと締め付けられた。  今から十数時間前に、ここで集団暴行があったのだ。以前付き合っていた女性の幼馴染みが、ここで殴られ、蹴られ、焼かれ・・・。桐生は思い出し、すぐに別のことを考えた。けれど、別のことを考えたところで、すぐにまた、嫌なことしか考えられなくなる。不愉快で、病的で、狂気に満ちていることを。  彼の行動はいつも、桐生にとっては理解し難いものだった。神津とよく行動をしているくせに、最後まで神津に染まらずにいる。神津の金魚の糞なら沢山いる。それは神津を恐れてであったり、神津から与えられる餌に釣られてであったり。けれど彼は違った。恐れるにしてはよく神津に異見したし、与えられる餌に喰い付こうともしない。むしろ、その餌の片付けばかりをしていた。 ――貪り食われた俺の、片づけを。    何故、彼は付き合っていた人の幼馴染みなのだろう。この運命を桐生は呪った。シャイで、晩生(おくて)で、純粋で、フェミニスト。彼女はその幼馴染みをそう説明し、笑っていた。自慢の幼馴染みなのだと言っていたのを思い出す。桐生はそれを笑って聞いていたのだ。手を繋いで、公園で。彼女も好きだったのだろうか。彼が。  無事だろうか。彼は。無事だろうか。焦りが生まれた。死んだらどうするのだろう。学校に全てがバレてしまうのだろうか。売春、強姦、輪姦、恐喝、集団暴行。全てがバレたらどうなるのだろうか。まず間違いなく大学進学は諦めた方がいいだろう。そして社会的に殺されるだろう。けれどそれを今心配してどうなるのだろう。まさに人が1人死ぬかもしれないのだ。連絡が一切入ってこないのが不安で仕方がない。携帯電話は鳴らない。彼のメールアドレスも電話番号も知らない。誰でもいい。事情を知っている誰でも。無事だという連絡が来ないだろうか。  桐生自身の幼馴染みと親友と、関わることを奪われた。交際相手と関わることも奪われた。今度は何を奪われるのだろう。友人を。お前を絶対に抱かないと、約束してくれた友人を。  言いようのない、まるで霧のような不安が胸のあたりに蔓延しているようだった。それを誤魔化すように、手の中の砕け散ったSDカードの破片を投げた。床にぱらぱらと音をたて、跳ね返る。 ――深里、ごめんな・・・・・・・・・・  冷たい指に、まだ彼の手の温もりを感じる。動かなくなって、放置された彼の焼かれて赤くなった手が。彼に暴行した数人は、虚ろな目に、顔には愉快をはりつけて、彼を殴った。蹴った。そうして、罪悪感にまみれ、責任を押し付けあうように去っていった。そうして神津は、桐生を一瞥して去っていった。  駆け寄って触れた彼はまだ温かかった。腫れ上がった頬や、切れた唇。黒い髪は後頭部から流れ出る血液で固まっていた。 ――死んだら、どうなるんだ?  きっと葬式で彼女に会うのだろう。泣いて、悲しむ彼女に。そしてそれを神津とともに、遠くで見ることしかできないのだろう。いや、葬儀に出席することすら許されないだろう。一生の十字架を背負ったまま生きなくてはならないのだろう。テレビにも映ってしまうのだろう。そうして見知った生徒がモザイクをかけられて、話すのだろう。事情も知らずに。母親は、父親は、妹は、どうなるのだろう。桐生は不安になる。自分のことだけ考えればいいなら、どれだけ楽だろう。今までのように、泥沼に溺れていればいいだけなのに。それだけではない。彼の家族はどうなるのだろう。  学園のすぐ裏側にある、ひと気のない倉庫で、桐生はただ考えた。答えなどでない。ただひとつ思い浮かんだのは、本当に誰かが神津を止めなければならない、ということだった。目の前で繰り広げられていた集団私刑には寒気がして、怖かった。逆らうな、と遠まわしに言われているようだった。 ――怖い・・・・・        床に散らばったSDカードみたいになってしまうのだろうか。助けを求めるように、月光を浴びるひとつの欠片から目が放せなかった。

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