67 / 109

第67話 Y

*  壁伝いに高宮の部屋まで歩いた。部屋の番号は知っている。有安の隣に転校生がきたという噂で聞いたのだ。そしてその転校生が、高宮ということも。  周りに人はいなかった。しかし、足音がする。左腕が血塗れであることが、まずい。神津は足音がしないほうの壁に身体を密着させた。  真っ白いロングスカートをはためかせ、サンダルで床を鳴らす長身の女性が見えた。顔立ちの雰囲気に見覚えがある。柳瀬川から聞いたことがある。衣澄には別居し苗字の違う三つ子の弟と姉がいるらしい。来た方向的にも衣澄の姉ということで間違いはないようだ。ふと神津は弟のことを思い出した。血の繋がらない憎たらしい車椅子に乗った義理の兄といた時間の方が長い。弟は生きているのだろうか。生きていたところで苗字はもう違っているし、また同じ屋根の下で暮らすことは難しい。血が繋がっていることなど関係がないのだな、と神津は思った。  衣澄には苗字が違えど会いに来れる程度には近い兄弟がいるのかと思うと複雑な気分になった。そしていとこもいる。自身が施設にいた頃は、桐生とも一緒にいられた。現在では一度は憧れた有安と仲が良いとも聞いていた。           理不尽だと、思わんかね。不条理だと。彼に家族があるように。            僕に歩行能力がないように。君に家族がないように。  車椅子の少年が自身の背後に立っている。そんな錯覚に捕らわれる。 「ブチ殺すぞ」  この車椅子の少年、神津にとっての義兄は今年で23だ。何をしているのか、生きているのかさえ神津は知らない。そもそも興味がない。神津が覚えている範囲で説明するなら、狡猾で意地が悪い。幼少期はよく陰湿な嫌がらせを受けたものだ。左腕に傷を走らせることを教えたのもこの車椅子に乗った少年だった。  神津は衣澄の姉が視界から消えるのを確認すると、目的地へ急いだ。急ぐ必要などなかったけれど、身体が急いた。今すぐにでも高宮という獲物を狩らなければ、満たされない気がしたのだ。  高宮がいるにしろ、いないにしろ、鍵はある。薬漬けで使い物にならなくなった寮長からマスターキーを拝借したのだ。  高宮の部屋に明かりは点いていなかった。いずれにせよ強行する神津には関係のないことだが。ドアに鍵は掛かっていなかった。無用心だな、と思った。玄関に足を踏み入れると、自身の部屋とは比べものにならないほど小さかった。玄関に伸びる廊下の間に洗面所があるくらいだ。そしてドアの対面の壁に窓があり、その壁に接するようにベッドがある。神津の部屋は一方で、2部屋はある。学園への寄付金の違いだろう。神津という実家には頭が下がる、と口の端を吊り上げた。もちろん嫌味だ。ただこの部屋の主は学園長の息子なのだから、もう少しいい部屋は用意できなかったのかとも思った。  暗い青い部屋には、カーテンのない窓から月光が差している。ふと実家の座敷牢に監禁されていたことを思い出す。施設から養子に出されて、すぐのこと。神津家は山の奥にある洋館に住んでいた。施設から強く望んで神津家に養子にきたのだけれど、生活は苦しかった。厳しかった。何より、学力面ではかなり厳しかった。耐え切れなくなると、逃げ出そうとした。だが失敗した。その時に、3日間ほど、洋館とは釣り合っていない座敷牢に閉じ込められたのだ。一生、電気の点いていない暗い部屋に怯えなければならないのだろうか。血塗れの左腕が微かに震えている。 「かおる・・・・ごめんな・・・・・」  そういえば、自分も誰かを監禁したのだ、という事実が神津の目の前に浮かび上がった。そうして自分がされたことの仕返しを全く関係ない誰かにしてしまった。翼の焼き鏝は、神津が気に入っていたものだ。車椅子に乗った義兄に自身は、蝶の焼き鏝を入れられた。戸惑う召使いたちの姿を今でも覚えている。苦しむように、わざと臆病な気の優しい召使いを選んだのだと今でもよく覚えている。 「かおる・・・・すまない・・・・・っ」  形のないものが、全身に乗っかってきたような感覚がする。形のない、色もない、けれどどす黒い靄みたいなものが、圧し掛かるような。柳瀬川が買ってきた肉まんを食べた。柳瀬川からミントガムをもらった。ただくっついてくる、ただ餌を欲しがる獣みたいなヤツだと思っていた。いつも傍にいた。それが当たり前だと思っていた。何故今、自分は暗い部屋に1人でいるのか、訊ねたかった。けれど答えなど望んでいない。 「高宮・・・・・許さん・・・・高宮・・・・・!」  高宮が奪ったのだ。高宮さえいなければ、柳瀬川が離れていくこともなかった。柳瀬川が敵対することもなかった。柳瀬川に暴力を振るうこともなかった。 「全てを否定してやる・・・・・!!」  こみ上げてくる怒りが右手のカッターナイフに向いた。力強く左腕を裂いた。肉が反抗する感触が心地よかった。歯軋りが聞こえるほど歯を喰いしばった。呼吸を整えてから、部屋に入ってきた人からは死角になる壁際に座った。床に滴った血液が窓から挿し込む月光に照らされ、漆黒の宝石のようにみえた。             どうして、母さんは、父さんは、ボクらまで殺そうとしたの。   どくどくと左腕は脈打っている。視界は白く、飛蚊症のように黒いものが浮かんでいる。そのなかで、小さな少年が立っている。座り込む神津を見ている。無表情で。 「お義兄(にい)さんじゃなくて、今度は誰だよ」  この少年の名前の発音は覚えているけれど、漢字までは浮かばなかった。 「カケル、だっけか?悪ぃな、字までは忘れちまった」  小さな少年は悲しそうな表情をした。これは弟だ、と直感で分かったけれど、頭では本当に弟なのか疑問が残る。本当にこんな顔をしていたのか、とか、本当に髪は直毛なのか、とか。癖のある自身の髪に軽く触れた。                  どうして。なんで。 「俺とお前が金食い虫だからだよ」  左腕の傷口から、内臓から体液から骨から何から、まるで買い物袋が破れたように全て出ていってしまうような気がした。切って、治って、また切って。いつの間にか皮膚は固くなり、半袖など着られる状態ではなくなっていた。  思っていたことを口にすると、ふと眼球の奥が熱くなった。 「生んでおいて、ひでぇよな。でも結局、そうなんだよ。人生」  少年は首を傾げた。 「子も親を選べねぇ。親も子を選べねぇ。手前勝手にセックスして、ガキ生んで、手前勝手に金がねぇの邪魔だのうるさいのって殺す」  寮生活の前の全ての記憶があの洋館での生活しかない気がした。 「でもな、付き合うしかねぇのよ。俺たちは。ガキだから・・・・」                        分かんないよ。なんでだよ。 「食われるために生まれたブタだと思えば、楽だろ・・・・・?」  思っていることを口に出すのが、あまりにも惨めだった。惨めで悲しくて、受け入れたくなかった。                それで、親に食われたから、生まれ変わって、               支配者にでもなったつもりなのかね。  弟だと思っていた視界に映るものは、車椅子の少年に変わっていた。 「お義兄(にい)サマは流石、頭がよろしい」  寒い。身体中が震えた。寒い。左腕の感覚がない。右腕は冷たくなっている。 「ブタ人生は終わったからな」  生んだ子どもを殺して自らも死ぬ親よりブタの方が偉い。ブタの方が人を生かすために死ぬのだから。神津は言ってからそう思った。               なるほど。浅はかで愚かな君が考えそうなことだ。  寒い。神津は両腕を抱いた。左腕の感覚が少し戻り、痛みが広がっていく。             「まぁ、そう言うなよ。俺、柳瀬川。よろしく」    耳に柳瀬川の声が届く。幻聴か、悪くない。神津は目を閉じた。                             「ガム食うか?この強さくらいがちょうどいいんだ」    胸を締め付けられた。自分は何をやっているんだろう。混乱した。                「たすけ・・・・て・・・・。怖い・・・・」  同じところにある焼印。自分は蝶で、彼は鳥。肉体的にも精神的にも深く傷つけた。それなのにどうしていままで傍にいたのだろう。どうして逃げ出したりしなかったのだろう。依存していたのは、自分だったというのか。 「かおる・・・・・かおる・・・・」  目が引き付けられるように天井に向く。 「・・・・生きろ・・・・・・・・・」  そこからもう、覚えていない。 

ともだちにシェアしよう!