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第69話 イ

「かえ・・・すか・・・ら・・・・・っ!」  高宮には何の話なのかさっぱり分からなかったけれどそう言ってみるしかなかった。否定なんてすれば、さらに痛い目に遭う気がしたのだ。 「か・・・えしま・・・・すか・・・・ら・・・・・」 「うるせぇっ!」  肩を強く掴まれ仰向けにされると、馬乗りになった神津の右腕が振りかぶられている。 「無理なんだよ。てめぇには返せねぇよ。・・・・・この淫乱!」  般若面のような形相だった。頬に硬いものが直撃する。口内に独特の甘さと鉄の味が広がる。 「ぶち殺すぞ」  神津は肩で息をしていた。そうして息を整えてから落ちてきた左腕の袖を捲くった。高宮はぎょっとする。神津の左腕に走る無数の蚯蚓(みみず)腫れと傷に。手首から肘にかけての内側は変色して、褐色とも赤茶色ともとれない。もとの皮膚に戻らず傷の塞がった白い傷痕が目立つ。 「あ・・・・あ・・・・」  言葉が出なかった。ただ声を漏らすだけ。誰かを殺したのではなかったのか。安心ではない安心。 「そうだよな。お仕置きだよな!」  神津は誰もいない壁の方に視線を向け、そう怒鳴った。気が狂っている。普通ではない。異常だ。高宮はどうにかしてでもこの部屋から出たくて仕方がなかった。幼児のようにぼろぼろ涙を溢し、神津を見上げる。照明に逆光して神津の表情は高宮には見えなかった。ただ影の右腕が左腕から何かを引っ張る。そうして赤い雨が高宮に降り注いだ。本物の雨のように頬に跳ねた。 「やっべぇ。興奮してきた」  ごぽごぽと左腕から血が流れているように高宮には見えた。左手が手首になる境で、開眼したような真っ赤な肉が見る。するはずがない生臭さが鼻に届いた気がした。胃袋が口から引っ張り出されるような感覚がする。神津には痛覚がないのか、それとも痛覚のせいなのか、元気だ。 「もう切るところがねぇよ!にいさん!どうする!?」  高宮は、自身に向かって冷やかして「にいさん」と呼んでいるのかと思った。 「ははっ!それは名案だなっ!」  神津は完全に、1人で話している。壁際にいる見えないものとか、それとも壁とか。 「おい高宮」  突然呼ばれた名前にびくりと肩が震えた。 「俺の右腕を切れ」  興奮に満ちた顔にある瞳は虚ろだ。目の前にいるならきっと高宮でなくても右腕を切るよう要求しそうな勢いだ。高宮は首を振った。「無理だ。出来ない」。頭のなかで何度もそう叫んだ。 「なんだと」  カッターナイフから手を放し、その右手は高宮の首に移動する。それから血に塗れて光る左手が高宮の首を包む。 「死ね。切れないなら死ね。死ね。死ねよ。死ね。死ね。切らないなら死ね」  右腕の力も左腕の力も、弱かった。神津は力を入れているつもりのようだ。高宮は神津の両腕を押さえる。 「死ね。死ね。死ね。切らないなら死ね。死ね」  神津は腕に体重をかけてくる。高宮は神津の左腕を掴み、傷を強く刺激する。神津は左腕を神津自身の方に引いた。痛覚はあるのだろう。高宮はすぐにカッターナイフに手を伸ばす。武器は危ない。 「死ねっ!」  神津の下半身が少し浮いたと思った。神津の膝が高宮の腹部にぶつけられた。喉の奥が引っ張られるような感覚と胃が爆発するような感覚に、消化管から熱いものが込み上げてくる。固体だろうかと思った。口からそれが吐き出される。胃から喉から口の中まで熱い。胃液だ。高宮は嘔吐した。摂取したばかりの夕飯。昼食に摂ったもの。半端に形を留めている。高宮はうつ伏せになって噎せた。さらに胃からそれらを引き出す。床は神津の血液と高宮の吐瀉物で汚れた。躊躇いもなく神津はそれを手で掬った。高宮は嫌悪感から目を逸らす。  神津は高宮の胃液で塗れた手で高宮の顔をべたべたと触った。 「いや・・・・!やめっ・・・・!」  胃酸の匂いが鼻をつく。さらに神津の左腕の生臭さを気のせいか、感じる。

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