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第78話 ヌ
「嫌です!帰りたくありません!嫌!」
折れようか、折れるまいか、歯ブラシを強く噛んで考える。静夏は衣澄を見上げた。
「三日間で、どうだ。この部屋を貸そう。ただし、外へは出るな。問題を起こしたくない」
3本指を突き立てる。静夏は不服そうだが仕方ないと言わんばかりに頷いた。
「貴方はどうなさるおつもりですの?」
「別の部屋を借りるさ。そうだな。薫の部屋が空くんだろう」
成田先生から渡された柳瀬川の休学届けを思い出す。内容は見ていないが、両親から提出されたものらしかった。本人の意志ではないということか。
「心配ですわ・・・・・。薫くん」
ふと出された柳瀬川の名前に静夏は顔を曇らせる。ふと衣澄の胸に靄がかかる。静夏は本当に柳瀬川を心配しているようだ。静夏の心配ごとを取り除かなければ、胸がこのまま、重いのだろうか。表情が見えるとなおさら、感情が流れ込んでくるのだ。
「・・・・やめろ。悩むな」
そして、胸が熱くなり、締め付けられる感覚に襲われる。静夏はぷいっと視線を逸らした。この感覚はおそらくは、静夏のだ。
「まさか・・・・好きなのか。薫が」
「・・・・彼が初恋の相手だったんです。今もまだ・・・想っているなんてことは・・・・ありませんわ!」
それはそうか、と納得する。柳瀬川と静夏が会う機会などすでにないのだから。
「それなら、多分薫も、初恋の相手は貴女だったようだ」
表情に出ている分、静夏の感情が色濃く衣澄の感情とリンクした。いつもなら、大体の感情を察せる程度でしかないのに。
「・・・・過ぎた話ですわね」
それでも胸がまるで縛られているような苦しさと高揚に溺れる。
「とりあえず中に入れ。俺は部活に行く」
玄関に静夏を入れ、衣澄は洗面所に向かった。静夏は洗面所の方にまでついてきた。
「頼みますわ。薫くんが気になりますの」
クールミントの味と匂いが口内に広がり、鼻を抜ける。鏡には衣澄の奥に、同じ顔をした、輪郭、服装、髪型が違うだけの女。
「何を、頼むんだ」
大きく溜め息をつき、鏡越しで合わさる視線を外して歯を磨く。水道から零れる一滴一滴が洗面器にぶつかる音がやたらに大きく感じた。
「ですから・・・・その・・・・」
「無理だな。学校に来ていないやつをどうやって面倒を看ろというのだ」
衣澄はコップに水を注ぐ。乱暴に蛇口を捻ったせいで、コップから水が溢れて零れた。
「そう・・・・ですわね。・・・それと、高宮さんって、妹さん、いらっしゃる?」
口に含んだ水がどばどばと零れ、寝間着に使っている薄手のロングティーシャツを濡らす。高宮に会わせた昨日のことだろう。
「・・・・妹・・・?いたかもしれないな」
高宮の名前を出されたことに驚いて、落ち着いて口元から滴る水をタオルで拭う。高宮から兄弟がいるようなことを聞いた覚えがあるが、それが明確に妹かどうかというのは覚えていない。
「奏詞と交際している女の子の苗字が高宮って言うんですの。昨日はピンと来ませんでしたけれど、寝ているときに気付きましたわ」
静夏は奏詞に対して過保護な一面がある。衣澄も同居していた頃は余計なお世話な域にまで面倒を看てもらったものだ。
「それで、アイツが貴女にそれを言ったとは思えないんだが、もしかして携帯電話でも覗いたのか?」
「ええ。それは姉ですから。弟の生活も把握なさいと父から聞いておりますの。兄が帝王学院高等学校らしいので・・・。他に高宮さんっていらっしゃる?」
「2年にはいないんじゃないか。・・・・・把握なさいって、勝手にメールでも見たのか」
躊躇いもなく静夏は頷いた。この姉は恐ろしいと思う。おそらく素行不良で頭の悪い弟の面倒を姉に体良く押し付けているだけなのだろう。
「まだ付き合って数日しか経っていないようですけれど、とても仲睦まじい御様子でしたわ」
「メールで分かるものか」
衣澄は口内に残るミントの味と爽快感を完全に落とす。歯磨き後に完全に歯磨き粉を落としてしまうと、配合されていたフッ素が落ちてしまうと本で読んだことがある。しかし衣澄はしっかりゆすがないと気がすまなかった。
「・・・・それは・・・そうですわね。これで高校に入ってから10人は超しますからね。彼女もその1人になってしまうかもしれませんわね」
衣澄はそんなものか、と思った。あの弟なら軽く20人は超すと思っていた。飽きたら捨てるのだ。そして再び夢中になることはない。同居していた頃からそうだ。
「それ、あまり高宮に言うなよ」
「あら・・・・。でも、もしかしたら義理の弟になるかもしれないのに?」
「高宮がアイツの義理の弟になろうが、俺には関係ないな」
「まぁ・・・まだ学生ですから、まだ結婚はしないでしょう?すると彼女と別れないまま18歳を迎えられるとは思えませんわね」
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