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第81話 ワ
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7歳のときに父親が母親を拳銃で撃ち殺した。弟の首を太い縄で絞めた。そして、銃口を向けられた。撃ち抜かれたのは肩だった。だから父親は震える手で、何発も撃ち抜いた。
その日から、全てが変わった。名前も、住む所も、家族も、生きる意義も、考え方も。
肩の傷は塞がっても消えることがないくせに、家族との思い出はどうしてか消えていってしまう。実際神津は、もう弟の名前の漢字も覚えていない。もとの苗字も出てこない。
引き離された幼馴染みといることが、過去と「神津」を結ぶもののように思えた。
神津は寮の中庭にある小さな菜園を傍観できるベンチに座った。寮棟の影のぎりぎりにあるそこは、5月の空気もあって寒い。自身の気分と裏腹に真っ白いパーカーが視界に映える。考え事をするときはいつもここに来る。まだ水をもらっていない土から伸びる深緑、そこに成る赤や紫、緑は気分を落ち着かせる。
施設から自身を引き取った神津家では、土をいじるなどなかなかさせてはくれなかった。
食事から何から何まで用意された神津家とこの学園は少し重なる部分を覚え、唯一穏やかな空間だと感じられるのは寮の自室でもなくこの中庭の菜園だ。背凭れに腕を回し、空を仰ぐ。青い空に白い雲。どこかで見た油絵のようだ。清々しい。
緑の壁と壁の間を縫うように走る少女の背中を追った。幾度と彼女は振り返り、笑みを向ける。人生で最後にみる、屈託のない笑顔かもしれない。麦わら帽子に薄い黄色のワンピースと、薄い茶色の髪を両サイドで縛っている。年齢は神津より3つ上。神津はさくらと彼女を呼んだ。
青い空に雲が浮かぶ。その下を走った。神津は空のザルを持っていた。施設の子ども達と育てた野菜を収穫しにいくのだ。後ろをついてくる十数人の子ども達は懸命に土を踏みしめ歩いている。
「こう、見て!このトマト」
今とは発音も違う名前に、ふと胸が染みた。じわりと綿に血が滲むような感覚が胸で起きた。
「こうは、トマト嫌いだもんねー」
無邪気な笑みを向けるさくらに、神津は頬を膨らました。
「大須賀 はトマト嫌いなのかー?ダメだぞー。トマトにはな、発ガン抑制作用があるんだぞ」
野太く健康的な声が2人にかかる。
「ゴウちゃん!」
さくらは声を上げる。褐色の肌に白い歯を見せる、体格の良い筋肉質の男は笑う。
「だってさ!ちょっと意味分からなかったけど、トマト食べなきゃだめだよ!」
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