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第82話 カ

 過去の苗字を思い出したことを誰かに伝えたかった。神津自身を知らなくてもいい。誰かに。幼馴染みたちでさえ呼ばなくなっていた苗字を。目蓋越しの眩しさが消える。影であるここのベンチではそれほど眩しい光がくるわけではなかったが、人の気配も感じ取れた。  目を開く。青い空が広がるはずの視界には影った白いものが広がっている。改めてみると、それは皿だった。段々大きくなり、しまいには神津の額に乗せられる。冷たい陶器越しに、温かさが皮膚に伝わる。 「大須賀・・・・・だ・・・・・・な・・・・?学園で、・・・見るのは・・・・初めてだが・・・・・」  視界には映らない声の主。話し方、口調、声。覚えている。神津は不機嫌な表情をした。 「冗談、だ。今は神津・・・・だろ・・・・?」  視界を塞いでいた皿が消える。すれ違うように声の主の顔が視界に入った。褐色の肌に、長めの前髪。下から見上げている神津の瞳とかち合う漆黒の瞳。 「・・・・・藤原さん・・・・・・?」 「あの後、西園寺に変わったんだ」  神津は背凭れに身体を預けるのをやめ、西園寺を凝視した。 「食うか」  西園寺は皿を差し出す。ジャガイモとベーコン、タマネギがまず見て取れる。 「シュペックカルトッフェル」  神津はふと呟く。神津家の食事に出てきたことがある。 「ジャーマンポテトだ」 「・・・・・・いただきます」  皿の淵に添えられた楊枝を摘まんで神津はジャガイモに突き刺す。 「神津家は、どうだった・・・・・・んだ・・・」  神津の横に西園寺も腰を下ろす。 「・・・・・」  神津家の養子の選抜テストで、合格したのは西園寺だった。 「藤原さんが西園寺家にもらわれるより、悪かったんじゃないかなって思ってッすよ」  神津家の洋館で食べさせられたものより、美味しい。 「・・・・・・余計な、ことを・・・・・した、な・・・・・・」  口に含んだジャガイモはコショウが効いていた。 「名前も、(すばる)に変えれらたんッすよ。神津(こうづ)(こう)だと語呂が悪いって」 「・・・結構、派手、に、やってるらしい、じゃない・・・・か・・・」  神津は、そうッすか、と言って左手を無意識に隠した。 「藤原さんも、もう死んだと思ってたッすよ。まさか同じ学校だったなんて」   今日は落ち着いている。いつもは苛々して、漠然としたものに怒りを向けているのに。幻覚も幻聴もない。 「藤原・・・なんて、呼ぶ、な」 「もう戸籍も神津(すばる)に変わってるんッすよ。本当にこれで、もう前みたいには戻れないや」  西園寺が心配そうな表情で、突然俯き出した神津の顔を覗き込む。 「戻り、たかった、のか」 「もし、藤原さんが俺に遠慮なんてしなかったら・・・・・。きっと藤原さんは上手くやってたと思うッすよ。神津恭介として」  神津の反応は西園寺の問いの答えになっていなかった。 「大須賀(おおすが)(こう)は、もう、いない、わけか」 「もう無理ッすね。戻れないッすよ。完全に毒されたんで」  左腕につけた傷も消えない。実父に撃ち込まれた傷にはそれを誤魔化すように焼印が入っている。 「だから、抗う、のか。それとも、自棄に、なっている、のか」  西園寺の「結構派手にやっている」という意味を漸く理解した。悪名高い、と言いたかったようだ。 「俺は一度、ブタとして生まれて死んだ。正確には殺された。親にな。だから、もう好きにさせてもらうぜってことッすよ」 「弟は、見つかった、のか」 「探す気もないッすよ」  西園寺の問いに神津は首を振ってから答えた。過去を知る人物と話すと落ち着いた。 「どうして、譲ったんすか。俺に」  何についてかはあえて言わなかったが西園寺には通じたようだった。今日は本当に穏やかだ。左腕の無数の傷が痛む。感覚がまともな証拠だ。 「俺には、未来が、なかった。それだけ、だ」  神津家の当主が施設にやってきたとき、誰もが目を輝かせたものだ。そして学力面で優秀な養子が欲しいということで、一斉に選抜テストと面接が行われた。テストは年長が有利であったが、面接ではそうもいかなかった。第一候補は西園寺。そして第二候補が神津だった。 「俺が、養子にいったところ、だから西園寺家は、一人暮らしの、お婆さんだった。・・・・もう亡くなった・・・が・・・。今は、経済面は、その人の、遺産で支援してもらって、いる」  第一候補の西園寺が、神津家に養子にいくことを辞退したのだ。 「単純に、西園寺さんから、前々から声を、かけていただいていた、からな」  

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