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第86話 ソ
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身体中が痛い。樋口は重い身体を引き摺りベッドから落ちる。指先が熱い。耳も顔も熱い。足の先だけが冷たい。課題をやらなくては、と床に這うような格好で、勉強机に手を伸ばすが届かない。冷たい床に頬を当てる。気持ちが良い。
「樋口、お粥作ってみたんだけど、食べられそうかい?」
心地いい声が耳の奥に響く。喉が潰れるように痛み、返事は出来ない。身体を回して、天井を仰ぐ。白い肌に黒髪を揺らす美少年が樋口を見下ろしている。その手には黒い円形。
「大丈夫・・・?」
樋口は起き上がった。後頭部を鈍く叩かれるような感覚が襲う。彼の問いのこくりと頷いた。
「桐生くん・・・・ありがと・・・」
抑揚のない声で感謝する。桐生は折りたたみ式のテーブルに手に持っているものを乗せて座った。お盆に乗せられた小さい土鍋が目に入る。
「梅干しと塩も持ってきたから」
白い手が、フキンで土鍋の蓋を開ける。解放される湯気が喉に心地よい。
「・・・・ごめん・・・・せっかくの休み・・・なのに・・・」
鼻で深く息を吐く。丸めた背中を桐生は撫でる。
「気にするなよ、1週間に2日はやってくるんだ」
桐生が小皿に粥をよそう。
「味の保障は出来ないけど、食べないよりいいかなって」
昨夜、手酷く神津に抱かれてから暫く高宮の部屋に放置されていた。風邪を引いたのだ。
「桐生くん・・・・・行かなくて、いいの?」
冷たい散蓮華を握って、粥を啜りながら訊ねる。曖昧にしてもおそらく意味は伝わっている。あえて桐生の顔は見なかった。笑顔は見たことが無い。だから別に、わざわざ見ることもない。
「俺は・・・・別に・・・」
「気にならないの?通報したのは君なのに?」
動かなくなって肢体を投げ出したあの人と最後まで一緒にいたのは桐生だ。樋口は、行くぞ、と強制的に引き離された。
「気にならないワケじゃないんだ。今日は休みだろ。色んな人が来てくれるだろうから」
構わず樋口は粥を啜る。桐生が気にならないはずがない。あの後ずっと、現場にいたのだから。飲まず食わずずっと。
「変な質問してごめん」
残りを小皿によそう。塩を粥に振る。
「いや、気にしないでくれ」
「神津君は・・・・?」
「朝から、部屋にはいなかった」
粥を啜る。
「神津君、何をあんなに、傷付いた顔するんだろう・・・・」
「・・・・」
樋口の呟きに桐生は黙った。樋口も桐生も、神津の過剰な自傷行為を見ている。
小皿と散蓮華のぶつかる音だけが聴覚を支配する。
「夕飯は、どうする。鳥粥でいいかい」
桐生が訊ねる。樋口は首を振った。
「大丈夫だよ。ありがとう。もう少し寝てれば治る」
「そう。じゃぁ、お大事に」
お盆が下げられる。桐生が背を向け、離れていく。
昨晩、神津からやっと解放された。「もうお前は、俺の知ったヤツじゃない」と別れを切り出された。自由とともに、恐怖でもある。以前の生活に戻るのだから。・・・・以前の生活?以前の生活ってなんだ?
樋口は頭を押さえた。以前の生活とは何だっただろうか。記憶を辿る。神津しかいない。神津って誰だ?顔は知っている。自身にとってどのようなポジションにいる?常に神津の庇護下にあって、神津に散々にいたぶられた。それが自分ではないのか?
「僕は・・・・何なの・・・・?」
ふと思い浮かんだのは高宮だ。神津のいた世界から引いて残るもの。高宮だ。高宮。
――高宮くんに会いたい・・・・・・
重い身体を引き摺って、部屋から出る。今すぐ会いたい。
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