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第92話 ウ
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「帰れ!帰れよ・・・・!もうオレに近寄らないでくれよ!」
冷静になった頭で高宮は隣で寝ていた樋口を押してベッドから落とす。痛みよりも驚いたような表情で樋口は高宮を見た。
「なんで・・・・?」
身体は冷めたはずなのに、高宮は頭痛を覚え、額を押さえた。
「神津に言われたのかよ・・・!?神津にまた、オレの弱み握れって言われたのかよ!」
薄手のシーツを抱きしめて、高宮は怒鳴った。樋口はふるふると頭を振りながら、眉間に皺を寄せた悲痛な表情をした。
「違う・・・!違うよ高宮くん・・・!僕は自分の意志で・・・っ」
「なんだよ・・・?自分の意志でオレを脅したのかよ・・・?荻堂さんのこと、衣澄のこと、ちらつかせたよな・・・・・?」
「違うんだ高宮くん!僕は神津君から・・・・っ」
高宮は両耳を塞いで首を振る。
「聞きたくない!ユウの声なんてもう聞きたくない!出て行けっ!」
樋口は目を大きく見開いた。その顔に高宮は言い過ぎたか、と良心が痛むのを感じる。けれど、つけこまれてはならない。
「高宮くん・・・・・。僕は、高宮くんに嫌われても、大好きだから」
ずきっと心臓が疼いた。自身を好いてくれるのに、脅迫まがいなことをして、抱かせたのだろう。信じたい気持ちと、裏切られたような刹那さが込みあがってくる。
「ばいばい」
背を向けて、一度高宮に振り返ると、微笑む。笑うな、笑うなよ。高宮は目を逸らす。せめて自分を恨んでくれたら、適当な理由をつけて、樋口を恨めるのに。扉の閉まる音がやたらと大きく耳に届く。
指が白くなるほど、薄手のシーツを握り締めた。眼球が、きゅうううっと縮むような締め付けられるような感覚と、滲む視界。熱いけれどすぐに冷めた液体がぼろりとシーツに染みを作る。吐息が嗚咽に変わった。助かりたい。もとの生活に戻りたい。何も知らなかった、転校前に。戻りたい。帰りたい。荻堂の顔。衣澄の顔。神津の顔。樋口の顔。
「たずげで・・・・・」
鼻が詰まる。震え、しゃくりあがる声で助けを求めた。
「柳瀬川く・・・・・」
無意識に口にしていた柳瀬川の名前。届かないミントの香りが、ふわっと鼻の奥まで通り抜けた気がした。
「やな・・・・・・うぅ・・・・」
どうして助けてくれないのだろう。助けを求めに行けば、助けてくれるだろうか。泣いて縋れば、助けてくれるだろうか。
「失礼するよ」
扉がノックもなしに開く。聞き慣れない声に、高宮は目元をごしごしと擦った。
「君は・・・」
扉の方を見ると、黒い髪の美少年が佇んでいる。桐生だ。
「樋口が今、しょんぼり顔していたから。喧嘩っていうよりは、一方的に拒絶されちゃった感じかな」
困ったような笑みは浮かべる。高宮は少し驚きを覚えながら話を聞いた。
「やっと神津から解放されて、きっと自分を見失ってるんだ。神津しか記憶にいないんだ。怖いだろう」
桐生は高宮のいるベッドまで歩み寄る。
「神津絡みでなくて、関わったのが、君が初めてなんだろう」
「でも、やり方は神津と同じだった」
拗ねるように高宮は桐生から顔を逸らす。
「君が、羨ましいな」
返ってきた言葉は的外れで、高宮は桐生に向き直り首を傾げる。
「汚い嫉妬心で、どうしていいか分からなくなる」
困ったままの笑みで桐生はそう言った。
「オレが・・・羨ましい?どこが・・・・!」
君が何を知ってるんだ。噛み付きそうになるのを堪えたけれど、棘のある口調になってしまう。
「自分が何なのか、分からなくなるほど人に依存されたことがあるかい。どんな人間だったか忘れるくらいに、執着されたことがあるかい。君に」
「・・・・・・?」
「貴久のこと、何があっても見捨てないでくれな。不器用だから。素直じゃないから」
「どういうことだよ?君って、桐生くんだよね?衣澄と仲悪いんじゃ・・・・」
高宮が桐生に目を向けるやいなや、桐生は高宮の額を指で弾いた。
「いっ!なんでデコピンすんだよ!?」
「ちょっとムカついたから。じゃ、そういうことだから」
額を押さえて高宮は桐生を見る。隙のない美しさ。背を向け、言いたいことだけ言って帰ろうとする桐生に声をかける。
「待てよ。仲、悪くなんてないんだろ?なんで・・・・」
桐生は足を止めたけれど、振り向くことはない。
「なんで一緒にいないんだよ?」
鼻で笑う声が届く。
「やっぱり君が、羨ましいな。教えるわけないだろ」
言っていることの内容のわりには、桐生は楽しそうな口調のように思えた。
「衣澄はきっと、君のこと好きだよ」
嫌いだったら、アドレスのなかに名前なんて入れない。
「いいや。貴久が好きなのは、きっと君だよ」
背を向けたまま、桐生はそう言った。自分の鼓動が早くなるのを、高宮は感じ取る。
「意味分かんねぇよ!なんで衣澄の傍にいてやらねぇんだよ」
「じゃあね」
「桐生くん!」
「さいご に1つ。柳瀬川には、もう頼るな」
呼んだけれど、桐生が満足な返事を寄越すことはなく、意味を理解しかねる一言を残して部屋から出ていってしまう。ぱたん、と扉の閉まる音。暫くぼうっとしていたが、鼻に届く苦そうな臭いに我に返る。荻堂のジャージを汚してしまっていた。大きくため息をつく。適当な服に着替えて部屋を出る。腰が疼くけれど、気分転換が必要だった。
樋口にひどいことを言ってしまった。神津に解放されたと桐生は言っていた。
いい風のよく当たると最近になって気付いた中庭へ向かう。中庭にある菜園に面したベンチに座り、空を仰いだ。
荻堂と新しい関係を築いていけば、衣澄が心配するようなことはなくなる。半ば強制的でもあるが、それは仕方がないことだ。
樋口との件はどうしようか。あそこまでひどく言う必要はあっただろうか。高宮は頭を抱える。いや、あれは立派な裏切りだ。行為に及ぶ前に、衣澄の名を、荻堂の名を出したじゃないか。
自分が何なのか、分からなくなるほど人に依存されたことがあるかい。
どんな人間だったか忘れるくらいに、執着されたことがあるかい。
神津絡みでなくて、関わったのが、君が初めてなんだろう
桐生に言われた言葉が蘇る。
――どうしてオレは、思ったこと言っただけなのに、後悔してるんだろ。
胸の辺りがもやもやとする。明るいことを考えようにも、そのことから頭が離れない。
「あーっ。わかんねぇ」
頭を抱えて、前にのめる。
「・・・・・大丈夫、か」
低い声が頭上から振り、高宮は顔を上げる。
「西園寺さん・・・・。なんでここに?」
「・・・・・菜園は・・・・・俺の、テリトリー、だ」
現代のありふれた高校生とは違い、土で汚れた白い手拭を首から下げ、長い丈、長い袖のジャージを着ている。白い運動靴は土で汚れている。
「これから、・・・・煮込み、ハンバーグを作ろうと、思う。よかったら・・・・、来ない、・・・・・か?一緒に・・・・夕飯を・・・・・」
西園寺は手にしたたまねぎを2つほど見せた。
「え、いいんですか!?手伝わせていただきます!」
現代のありふれた高校生と違う。そこがいい。高宮のいる、おかしな生活と違う世界観に誘ってくれる。
「ああ。美味いのが出来るといいな」
表情は無いけれど、優しさを感じる。
「はい・・・・!」
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