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第96話 ク
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天城は一礼して車から降りた。「前向きで 車上荒らし注意」と書かれた看板が、車が向いている植え込みに立っていた。白衣をはたまかせ、無言で歩き出す小田桐に、「ロックしたんですか」と問えば、小田桐はポケットに手を入れた。車からガシャっと音がする。「荷物はどうするんです?」と問えば、小田桐は再びポケットに手を入れ、車を解錠する。有安も思い出したように、あっと天城を見た。
「気をしっかり持ってくださいよ」
車のドアを開け、柳瀬川の荷物が入ったダンボールを天城は担ぐ。ドアを閉めると、小田桐がロックした。小田桐も有安も、気が気ではないようだった。天城は溜め息をつく。友人が寝たきり状態ということに動揺がないわけではなかったけれど、現実味のない分、天城は冷静でいられた。
「すまない」
先生と生徒、というだけの関係には天城には見えない。柳瀬川、彼だけのためなら他の生徒など捨て駒。小田桐から遠回しに法に触れろと言われたときに、不快感を覚えた。利用されているという不愉快な感覚。
――そういえばかおりんの両親、歯科医だったよな。
帝王学院は偏差値も格式も学費も高いけれど、黒い噂は絶えない。それは神津が暴れ回っているというだけでなく、教師と生徒の保護者との関係もそうだ。成績を買収したりなんてこともある。神津が犯罪染みたことを平気でやっているのは莫大な寄付金が裏にあるということが証拠だ。。片親で、稼ぎが少なくい天城は静かに問題なく暮らすしかない。
――両親が歯科医じゃ、やっぱ稼ぐんだろうな。
卑屈になるわけではないけれど、もやもやした気分になる。小田桐が焦燥する理由に嫌悪感を覚える。不純だ。偽善だ。汚い。今ダンボールを担ぐ体力さえ、この小田桐の不純な善人の演義に使われているのかと考えると、今すぐ力を抜いて、このダンボールを捨ててしまいたい。
「天城・・・?」
有安が心配そうに顔をのぞく。
「ごめん」
車の傍からなかなか動こうとしない天城に有安が戻ってきたのだろう。小田桐の姿はもう小さくなっていた。天城は胸焼けのような感覚を覚えつつも後を追う。
片親で、他の生徒たちを比べると圧倒的に寄付金なんて少額。寧ろ奨学金で生活している身だ。無理して勉強して、帝王学院に入学するべきでなかったと、2年になって気付くなんて。親を恨んでいるわけではない。感謝している。友人より一度は付き合った女性よりたった一人の母親を愛している。けれど捨て駒にされてみると、案外傷つくものだった。
「どうしたの?会うのつらい?」
有安が腕にそっと触れた。つらいのは有安の方であるというのに。天城は引き攣った笑みを浮かべた。天城は首を振って歩き出す。
「つらいのはワタぼうじゃないだろ。アリスちゃんでしょ」
悪意と苛立ちを隠す。けれど隠しきれず、低い声が出た。有安は目を見開いて天城を見た。
「小田桐先生、かおりんと何かあったのかな」
そう訊ねてみれば、有安は動揺を見せる。
「そう、思う?」
「思うね。ただ先生だからっていうようには見えない」
身体がじわじわと熱くなってくる。夏場のじっとりとした暑さに似ている。
「怒ってる?」
「怒ってない」
有安が不思議そうに顔を覗き込んでくるのが煩わしい。暑さのせいか。純粋な劣等感と、小田桐への軽蔑、柳瀬川への同情。一度に3つの感情を頭が処理しきれない。コンピュータをいじれたところで、自分の感情のコントロールができない。
「何に対して、怒ってるの?」
「怒ってないって言ってるだろ!」
有安を怒鳴りつける。そうしてどうにかなるわけでもないことは分かっている。有安の怯えた表情に天城はうっと呻いた。
「ごめん」
小さく謝って、小田桐のもとへ足早に向かう。有安を置いて。
――こんな金持ち学校に入るんじゃなかった。
病院に入ってすぐの待合室を通り抜け、エレベーターに乗り、柳瀬川が入院しているという病室に向かう。小田桐が口を開くこともなければ、有安が話しかけてくることもなかった。天城も話すことなどない。心地よい程度にかかった冷房に身体が冷える。クーラーは苦手だ。
静かな廊下を歩く。白衣の白髪まみれの30代前半程度の男に、小柄で中性的な美少年、そしてダンボールを肩に担いだジャージ姿の男。車椅子に座る人の良さそうな笑みを浮かべた老婆が優しそうな眼差しで天城を見つめている。孫と重ねているのだろうか、天城も目を合わせたまま歩く。
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