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第97話 ヤ
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病院からの帰り道、桐生だけ1人帰らせて神津はケーキ屋に寄ったのだった。高校生に渡すには少しばかり値が張るケーキがいくつか入った紙箱を持って、神津は荻堂の部屋の前をうろうろしていた。インターフォンを押すかどうか、というところで迷っていた。部活中の荻堂にわざわざ連絡まで入れて部活から帰ってきてもらったのだから、居るというのは分かっている。
ある日いきなり失くした弟と同じ響きを持つ荻堂の弟に、神津は自覚があるほど弱かった。甘い物が好きだと聞いていたから、喜んでくれるだろうか。あまり他人に対して思ったことのない感情がじわじわと胸に広がった。
「さっきから部屋の前でなんなんだ」
荻堂と弟の部屋の玄関の戸が開いて、彫りの深い端正な顔が覗く。
「・・・・こんにちは、荻堂先輩。かわいい恋人とはどうなんです?」
挑発するように挨拶する。荻堂の表情が歪んだ。
「イマイチだな」
荻堂の返答など神津にはどうでもよく、言い終わるが早いか、ずいっとケーキが入った紙箱を荻堂の目の前に差し出す。
「尊敬する先輩の弟さんの、お誕生日、ですよね?」
神津自身、自分でも気持ち悪いと思う程の笑みを見せてやった。荻堂の表情はこれでもかというほどに歪む。
「弟にも手を出すのか。どうしたい。俺が退学でもすれば、手を引いてくれるのかよ」
荻堂は目を伏せ、そう訊ねた。
「まさか」
あの弟がいる荻堂に対する妙な苛立ちはなんだろうか。けれど荻堂が退学することとは違う。荻堂が退学しても、別に満たされるようなところは神津にない。
「ただただ、荻堂先輩の弟さんを祝う気持ちでいっぱいなだけです」
祝う気持ち、嘘ではない。神津は正直な気持ちを揶揄に潜ませた。どこか懐かしさを覚える荻堂の弟が歳をとる。失った弟は、歳をとれないのだから。
「物騒なクスリでも入っているんじゃないのか。そんな胡散臭いもの、弟に食わせられるか」
「それならあの恋人に毒見させたらいいじゃないですか」
このケーキが弟の口に持っていかれなくてもよかった。寂しさを確かに、けれど微かに覚えたが、神津は懐かしさを覚えた荻堂の弟に贈り物をするという事実だけでよかった。
「・・・・・ふん。弟には絶対に手を出すな。俺を退学に追い込みたいならいつでも退学してやる」
「そんなにかわいい弟、ですか。羨ましいですね」
どんなに正直なことを言っても、全て揶揄になってしまう。それでいい。神津の口角は上がった。
「言ってろ」
荻堂の弟とは、何か大きな接点があったわけではない。荻堂の弟は公式テニス部で、神津のクラスに硬式テニス部の部員がいた。連絡か何か、それともただ仲が良いだけなのか、同じクラスのテニス部員に用があるようで、荻堂の弟をよく目にした。その程度。
「最近できた、海外から進出してきたちょっと高級なケーキなんです。食べさせてやってくださいね」
全てを失う前の弟のことなんてもう覚えていないけれど、記憶の断片を掻き集めてみて、成長していたら、こうなるんだろうか、と荻堂の弟をみて思った。
「カケルは絶対にお前の駒にはさせない」
「あれ、駒だったって自覚はあったんですね。ま、そうやっていい兄貴ヅラしているといいですよ。兄弟って言ったって、別個体でしょう。別個体にそこまで尽くせるものですかね」
もしも荻堂カケルが高宮を地獄に落とす駒になるのならその時は厄介な情を押し殺してでも使う。
「食べる気がないなら捨てて頂いても大いに結構」
荻堂は突き出されたままの紙箱を渋々受け取った。断固拒否することもできないのにそうしないのは、贈り物をされたということに対しての感謝なのだろうか。妙に律儀な荻堂が神津には滑稽に思えた。
「一応、ありがとう、とは言っておくらからな」
「いいえ。カケルくんの誕生日ですからね」
カケル。口に出してみるとなんと懐かしい響き。生きている間にどんなことがしてやれただろう。ただただ哀れな弟だった。あんな家に生まれて、幸せだっただろうか。込み上がってくる胸の痛みと重みを押さえようと神津は薄気味悪い笑顔を振りまいて荻堂のもとを去った。
荻堂は嫌な客が来やがったとばかりに舌打ちして神津の背中を見るやいなやドアを閉めた。気が利いて、話し上手で聞き上手。勉強もよくできて素行もよい。テニス部でもよく活動していて先輩とも仲が良い。少し食べ物に対する好き嫌いが多いが、かわいい弟だ。血の繋がりはないけれど、仲の良い兄弟なのだ。
紙箱をじーっと見つめ、自分の部屋のテーブルに置く。甘い物好きな弟の目に付けば、警戒することなく食べてしまうだろう。毒見をする勇気もないけれど。
「どうするか、これ」
ふと口をついて出る。紙箱に描いてあるロゴマークと雰囲気が高級さを確かに感じさせる。本当にいいものをもらってしまった。荻堂はおそるおそる紙箱を開ける。ピンクや紫、褐色や白、茶色のケーキが箱にぎっしり入っている。チェーン店で買ったようなケーキとは違うのだと見てとれた。大丈夫だろうか、と思ってしまった。以前は媚薬入りのオレンジジュースを飲まされたが、ケーキなら毒の入れようがないだろうか。これが神津が作ったのでなければ。しかし神津からもらったという時点で疑うべきなのでは?荻堂は紙箱を閉じてから頭を抱えた。
――喜ぶだろうな、カケル。
渡せば喜ぶだろうが、リスクを考えると渡すに渡せない。高宮のことがあるから。あれから退学になるのではないかと恐れた。でも高宮は学校に言いつけるつもりはないようだった。けれど荻堂を肉体的に利用するかのような言動をする。退学を免れただけよかった。強姦で退学など、恥晒しだ。一族の恥だ。父に母に何と言えばいい。ベッドに座って、頭を抱えて考え込んでいると、解錠する音が聞こえた。
「ただいま!いっぱい誕プレもらった!」
休日だというのにテニス部は活発だ。今日も朝早く出て行った。両腕いっぱいの紙袋に駄菓子がたくさん入っている。昔懐かしい紫色のだっこちゃん人形が腕に抱きついている。サプライズでもされたのか、顔がクリームで汚れている。
「お、おお、ただいま。そうか、よかったな」
荻堂の部屋は玄関から少し覗けた。ケーキの紙箱を死角に隠す。
「うん、この菓子めっちゃ好き!」
紙袋から紫色のビニール製の包みをだす。粉を水で溶いて、化学変化を楽しんで食べる駄菓子だ。
「よかったな」
どたどたと自室にいく弟を見つめる。高校1年生なのに荻堂には子どもっぽい。寮生活だからだろうか。血の繋がらない弟・カケルが荻堂家にやってきたのは9年か8年くらい前だ。今思えば人懐っこい利発な子。
「そういえば兄ちゃん部活は?」
弟の自室から声がする。
「ちょっと俺だけ、早めに終わったんだよ」
両隣の部屋にうるさくなるため、いつもは大きな声で壁を隔てて会話はしないが、両隣が活発な運動部でこの時間帯は部活でいないことを知っていた。荻堂はケーキの紙箱を見つめてから、あることに気付く。テディベアがない。タンスの上に乗っけてあった、漆黒の目のテディベアがなくなっている。どういうことだ。この部屋に入れるのは弟と自分だけ。監視カメラかもしれないとは思っていたのに迂闊だった。あの悪名高く胡散臭い神津からもらった物だから。やはり監視カメラだったのだ。握られた弱味が増えていく。神津の駒になっていく。どこからこの学生生活は狂い始めたのか。
「兄貴?」
弟が荻堂の部屋を覗きにきた。荻堂は頭を抱えて髪を掻き乱した。
「俺は退学するかもしれない・・・・!」
荻堂の言葉に弟は少しだけ目を見開くだけ。
「なんで?学費?それならオレが辞め・・・・・」
「違う!」
弟だけには絶対に言えない。絶対に言えないのだ。
「じゃぁ・・・なんで?」
弟に悪気はない。この質問が荻堂を追い込んでいるという自覚はないし察する由もない。
「言えない」
「そっか。分かった。でも、誕生日に聞きたくなかったよ」
しゅんとして弟は部屋から出て行った。
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