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第98話 マ

* 「千歳」  神津はメイドの名を呼んだ。メイドから引き抜いて、側近にしたが、神津の用がない限りはメイドとして神津家で勤めている。 「はい」  菜園の見える中庭のベンチに腰掛けていると、背後から女の声がした。 「どうだ」 「ええ。六平静夏を捕らえるよう手配しておきました。・・・・どうなさるおつもりですか?」  長谷部は無表情のまま訊ねる。 「千歳、お前に暇をやる。俺といるの疲れるんじゃないのか」 「いいえ。その命令だけは従えません。神津様がわたくしが迷惑だと仰るならば、従います」  神津は鼻で笑う。 「殊勝なことだな。座れよ、隣」  神津家というだけの召使、メイド、執事ならたくさんいる。ただ身を挺して神津に尽くすメイドはこの長谷部だけだ。 「失礼します」  一礼して神津の左隣に座る。 「千歳。俺がいなくなったら、悲しいか」  空を見上げる。昼過ぎの空は眩しい。左腕に温もりを感じるが、ぴりぴりと痛い。包帯の下が痛んだ。 「悲しい、です」  長谷部が神津の左腕を撫でていた。痛いからやめろ、と邪険に扱う気は全く起きず、長谷部に委ねる。 「仮に嘘でも、嬉しい」  長谷部の表情が曇った。いつもの神津はこんなことを訊ねたりしない。 「ですが、このままがつらいのなら」  長谷部は最後まで言わない。言え、と言えば長谷部はこの続きをはっきりと口にするだろう。 「いや、俺はどうしてもやりたいことがある。どうしても、な」 「そうですか。例えこの命を使うことになろうとも、わたくしは神津様に尽くす思いです」 「そうか。そう言ってくれると嬉しい。死んでもらう予定はないが」  神津が自分で巻いたのであろう包帯は雑で緩くなってきていた。長谷部は一度包帯を丸めながら外していく。 「肩、借りても、いいか・・・・?」  眠そうな声。長谷部が返事するよりも早く、神津は長谷部の肩に頭を預けた。 「千歳。お前は大事な・・・・側近だからな・・・・」  眠いのか声が小さくなって聞き取りづらい。  安らかな寝顔に長谷部は落ち着いた。10近く歳の違う神津を、弟、息子のように思っている。  人生に絶望したときに神津と出会った。神津のもとで働いてみて、生きようと思った。生きる希望を教えてくれた神津になら命を捨ててもいいと思った。  ぼろぼろになった神津の左腕を優しくさする。しなやかな指に長谷部の指を絡めた。爪の先端は齧られてぎざぎざとしていたが、爪そのものは綺麗だ。この少年を長谷部は救えないのだと悟っている。この少年の身も心も救えないのだ。幸せになろうとせず、ただ復讐だけを考えている。それでも長谷部は神津に尽くしたかった。規則的な寝息。穏やかな寝顔。母性本能かもしれない。神津を襲っている恐怖や不安から助けたい。本人が望まなくても、幸せになってほしい。そうでないと長谷部自身が救われた気分にならなかった。  旦那と子どもを殺されてから、ずっと心を閉ざしていた。何も話さない、何も聞かない。何も考えない。それでも視覚、聴覚を完全に遮断することなどできなかった。神津の義兄の嫁候補にされたがために、旦那と子どもは交通事故の裏に殺された。両親、兄弟も火事の裏に殺された。ただ1人助かった妹も、いつの間にか消えた。神津家の洋館に連れられて、一室の中で全ての世話をしてもらった。神津の義兄と同じように、車椅子に乗せられ、生活した。神津の義兄の嫁が完全に決まると、それまでの生活が嘘のように文字通りゴミ同然に捨てられた。神津家の敷地内だが洋館の外に、放り投げられたのだ。数年歩かなかった脚で歩くこともできず、歩こうとすらしなかった。洋館の入り口ではなく、裏口だったが、そこで野垂れ死んでもいいとすら思っていたし、自分が生きているという実感すらなかったのだ。それでも勝手に生きようと身体は這った。神津家の洋館は立派で大きい。こういう思い出で恐怖しか抱かないために長谷部は洋館を離れ、帝王学院の教師として神津を見守ろうと潜んでいる。  長谷部と神津が初めて出会ったのは、神津が神津家に養子入りしてからまだ間もないころだった。ぴしっとした制服に身を包んだ、小学校高学年の神津。たまたま神津が洋館の裏口から入ろうとしたために、出会うことが出来た。ただ神津には、長谷部が不気味な女に見えて仕方がなかった。虚ろな瞳に這うような格好。神津はぎょっとしていたがすぐに館内の者を呼んで、長谷部を保護した。館内の者は反対したが、神津が、神津自身の嫁候補という形式で長谷部を保護したのだった。  神津との出会いを思い返すと、神津が愛しく感じられ長谷部は神津の頭部に手を回し、優しく抱く。人間の尊厳を失った自分を保護してくれた。神津の義兄に長谷部を保護したことを詰られても、平然と長谷部に笑みを向け、優しさをくれた。時に神津自身がご飯を食べさせてくれた。添い寝してくれることもあった。外に連れ出し、花言葉、虫の名前を教えてくれることもあった。憎き義兄に、陰でいじめられていたことを知っていた。 「神津様」  神津の肩を支えながら、ゆっくり倒し膝枕する。 「千歳?」  目を閉じたままだがはっきりと名を呼ばれる。義兄に殺された亡き夫に出会ったときと、今の神津は同い年。全く似ていないけれど。 「おやすみなさい」  神津のしていることが非人道的だとか、倫理に反するとか、そんなことはどうだっていい。神津のすることを、正しいとか正しくないとか判断せずに、支えるだけ。神津の指示に従うだけ。形式だけの嫁候補から抜け出し、メイドとして働き、側近に抜擢されたからには。  薄めを開けて神津は手を伸ばし、長谷部の頬に触れた。そして笑う。人間的な部分がまだ神津にある。神津の伸ばされた手を長谷部は握った。痛むのかびくっと一瞬震えた。形式的ではあるが、10近くも歳が離れ、一度は結婚もして出産もした自分を嫁候補にし、厚遇してくれた神津に忠誠心が募る。 「ありがとうございます」  恨みが憎しみが絶望が、尽くしたいという気持ちに変わった。神津にいずれ、取って替われる命なら生きたいと思った。じわりと視界が滲んだ。  

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