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【100部記念】番外:イルミネーションと堕天使の冬【柳桐】

※精神的に 柳瀬川×桐生(×柳瀬川?)本番ナシ 自慰 すれ違い ※時系列に矛盾あり 「柳瀬川」  自分の名を呼ぶ美しい声があまりにも意外で、柳瀬川は驚いた。買ってきたばかりの肉まんやあんまん、他にもピザまんが入った袋を落としそうになってしまうくらいに。桐生だ。 「お、なんだ?」  肉まんをかじりながら柳瀬川は振り向いた。冬に食べる肉まんが特に好きだった。  1週間ほど神津が実家の都合といい、実家に帰ってしまった。放課後、寮に戻らずコンビニに向かう柳瀬川にたまたま会った桐生がついてきたのだ。肉まんを2つ、あんまんを1つ、ピザまんを1つの計4つを買いコンビニから出てくると、桐生は何も買うものがなかったのか、外にいた。桐生が柳瀬川についてきたのは神津への遠慮だろう、と柳瀬川は解釈する。そして、「別に神津がいないからって俺に付き合う必要ないぞ?」というと、「別に神津のことは関係ない」と無表情のまま返される。それから「食うか?」と熱い袋を差し出すが、首を横に振った。  それがおよそ20分くらい前で、沈黙が流れたまま寮への道を歩いていいた。学園内に寮があるが、学園内に入った頃、それが今。 「あの・・・さ・・・・」  マフラーに埋もれた桐生の顔を見つめながらも肉まんを食べる動作は止めない。性行為とその前後の妙な時間以外はあまり歪ませない表情、顔色が少し違う。 「えーっと・・・・」  珍しい様子に柳瀬川は少しどきっとした。普段は冷たい印象を受け、切り捨てるような、あまり明るくはない物言いをする桐生だ。 「どした?神津いなくて、緊張緩んだか?」  白い顔が少し赤い。寒いからか、と柳瀬川は思い、触れないことにした。 「いや・・・・その・・・・もう!」  柳瀬川に差し出されたのは2枚の札。なんだそれ?と首を傾げながら柳瀬川は肉まんの入った袋を片手で抱き直し、食べている肉まんをその手に持ち替え、2枚の札を受け取る。 「ああ、チケットか。なんかのお札(ふだ)かと思った」  白地に墨のようなもので何か描かれ、朱色の判子のようなものが押してあったのだ。 「ホラー映画の、新作のチケットなんだけど・・・クジ引きみたいの、当たってさ・・・・」 「まじで!?季節外れだな」  そのチケットのデザインをなんとなく見て、それからまた桐生に返す。桐生は目を見開いて、俯いてしまった。 「・・・・・そ、そうだな。季節、外れ、だよな・・・」  何故か固い笑みが返ってくる。桐生の様子に、脳裏に稲光のようなものがした。この感覚を何となく柳瀬川は知っている。そして察した。 「もしかして、誘ってくれてた?」 「え、違う!違うんだ!!俺は興味ないから、柳瀬川にあげようと思って!カノジョとか、仲良い友人とかいるだろ?だからさ・・・・!」  いつも落ち着いている桐生の声は裏返ったり上擦ったり、慌てているのが見て取れる。柳瀬川は変な奴だな、と思って、桐生の手にある2枚のチケットを手に取る。 「俺カノジョいねぇよ?ずっと1人。それなら一緒に行こうぜ」  ふざけるように、全国の恋人持ちを僻むような口調で柳瀬川は笑う。 「あの、高宮って子と仲良いんでしょ・・・・?」  桐生は視線を落としてしまう。高宮という転校生で柳瀬川のクラスメイトと柳瀬川が仲が良いのは神津から聞いているし、自分でも何度か見たことがあった。 「うぇっ!?なんで高宮!?いやいや、クラスメイトな」 「べ、別に・・・・!柳瀬川が誰と仲良くても、俺には関係ないよ、な」 「そんなことねぇぞ。桐生が俺のこと、気にかけてくれてて嬉しいよ。・・・・なんとなく?」  柳瀬川は困った表情で桐生を見る。 「一緒に行こうぜ。それともホラー、だめ?」  桐生はぶんぶん頭を振った。 「行きたい!」  いつも無表情な分だけ、桐生の嬉しそうな表情は胸になんとなくもやもやと引っ掛かった。笑顔とはまだ離れているけれど。  チケットに描かれたおどろおどろした書体の日付の日は学校だったために、まだ帰りのHRが終わっていない桐生のクラスへ向かって、廊下で待っていた。 「あ。待った?ごめん」  この前のような慌てた様子はなく、見慣れた冷たい表情。  この時期になるとすでに学校指定の紺色のダッフルコートをみな着ている。柳瀬川がこれを着ると大学生や社会人に見える、と言われる一方で、柳瀬川には桐生が着ると幼く見えた。 「いや、今来たところだから」  桐生のクラスの生徒は2人を怪訝な顔で見て教室から出て行った。「神津には秘密の逢引」にでも見えたのだろうか。神津が帰ってきたら何か罵倒されるな、と思ったが、何故か柳瀬川にはあまり怒らないので、まぁいいか、と軽い気持ちになった。  映画館は少し遠かった。桐生はいつも通り静かで、電車内でも口を開く様子はなかった。車両の隅に座ると目の前にカップルが座って、イヤホンを共有し手を繋ぎながらもお互い携帯電話をいじっている。それをじーっと見つめている横顔を柳瀬川は見つめた。もう一度、桐生の視線の先のカップルを見る。眼鏡にあまり派手さはない茶色。なるほどな、と柳瀬川は自分のいとこを思い出す。最初は、桐生と付き合っていた女子であり、自分の幼馴染を思い出したが違うようだ。  顔が熱くなるほどの電車内の温度に気が変になった。柳瀬川はそういうことにして、桐生の手を取った。印象や口調だけでなく、手まで冷たい。桐生はぎょっとした。代わりにされてもいいと思う。 「え・・・っあ・・・柳瀬川・・・・?」  世間の目が気になるなら隠せばいいと、マフラーを外して桐生の手を握った手にかける。 「これからホラー映画で冷えるんだから、身体温めておけよな」  無邪気な笑みを見せ付けられ恥ずかしくなったのか、桐生は視線を逸らす。チケットに書かれた映画館までは電車で2時間ほどかかる。乗り換える駅までは1時間半。帰りは12時すぎるな。電車の天井を仰ぐ。網棚と広告が見える。 「・・・・神津に、怒られるかな」 「う~ん、どうだろうな。チケットくれたの桐生だけど、誘ったの俺だからな。心配しなくても大丈夫だろ」  えっ。桐生の表情が歪む。 「あ~、大丈夫。怒らないだろ。何も言わなかったし」  マフラーの下の桐生の手が握り返してきたのを感じ、妙な熱さが胸に広がる。 「俺の代わりに柳瀬川が怒られるとか、俺、嫌だよ」 「大丈夫、大丈夫」  ははは。軽く笑っていると、隣の車両からこちらに来た女子高生たちと目が合った。女子高生たちは、「かっこよくない?」とか「めっちゃきれー」とか小声で言いながら通りすぎていく。 「遅延とかなきゃ、ちょっと時間あるから何か食べていこうか」  柳瀬川が訊ねると、桐生はこくりと頷いた。マフラーで鼻から下が埋まり幼く見えた。  各駅停車に乗ったために、駅に着く度に開くドアから入り込む冷気に目が覚めた。そして何度も自分が寝ていたことに気付く。乗り換える駅の1つ前でやっと目がしっかり覚め、桐生は!?と隣を見る。マフラーの下の桐生の指が、ぴくっと動く。一緒に寝ていたらしい。桐生の長い睫毛も震えた。起こしてしまったのか不安になったが、まだ眠っている。神津のいない1週間、せめて穏やかに過ごしてほしい。内心そう思っている自分に気付く。それから、身代わりにしているのは自分だと気付いた。 「桐生。起きて。もう少しで降りるよ」  肩を優しく叩いて起こす。 「ん・・・・・っ」  眉根を寄せて、目を強く瞑ってから、瞼が上がる。 「柳瀬川・・・?」 「そ、俺。柳瀬川だよ」  目を擦りながら欠伸をする桐生。外見や印象からあまり人間らしさがなく、人形のようだと思っていた桐生の人間らしい一面をみて、柳瀬川は少し驚いてから、当たり前かと一人でにやけた。 「寝ちゃったね」  目の前に座っていたカップルはいつの間にかいなくなっている。 「緊張して、夜眠れなくって」  視線を泳がせ桐生はそう言う。 「そんな緊張しなくても、別に神津は怒らないから大丈夫だよ」 「そうか。・・・・そうだよな。・・・・・ん?いや・・・そうか」  納得した顔からいきなり首を傾げ、語尾は小さくなっていくが、腑に落ちない表情をした。 「どうした?」 「いや、なんで緊張してるかっていうと神津に怒られるからなのかなって思ったんだけど、違う気もした、っていうか」  柳瀬川も首を傾げる。 「悪ぃ!そういう文学的なことよくわかんねぇ!」  桐生もそんな柳瀬川に「文学的か?」と疑問符を浮かべる。 「ん、でも俺もよく分からないや」  桐生のその言葉でまた沈黙に戻ってしまう。数分その気まずさに耐えると、乗り換える駅に着く。  駅のアナウンスから、次に乗る電車があと2分で出発することを知り、2人は急いだ。この電車を逃しても、10分以内には次に来るのだが、このときは何も考えずにただ急かされるまま走った。電車に乗り込むと、いつの間にか桐生の手を握って走っていたことに気付き、慌てて手を放す。赤い顔で息を切らしながら桐生は柳瀬川を見た。 「話に聞いてたとおり、速いね」  誰から聞いたんだ、なんて訊かなくてもすぐに思い当たる人物がいる。けれど桐生はあえてその人の名を言わなかった。だから柳瀬川も訊き返したりはしなかった。 「運動大好きだったからな。今はもうやってないけど」 「バスケ部は?」 「退部しちゃってさ。ダンス部も幽霊部員」  柳瀬川は、桐生が自分がバスケ部に入っていると知っていたことに内心驚いていた。 「この前といい今日といい、桐生には驚かされるな」  思ったことを素直に伝える。桐生は目を見開いている。 「俺も、ちょっとビックリかな」  桐生は赤い顔をして、小さくそうつぶやいた。 「それにしても、腹、減ったな」  10分程度しか乗らないために、ドアの横に2人は立った。電車が動き出す。 「柳瀬川は何が好きなの?肉まん?」 「え、俺?いや、肉まん好きなの冬だけであのコンビニのだけだから!そうだな、基本的に何でも好きだな。桐生は?」 「冬は、鍋かな。最後にご飯いれて雑炊にしたり。ラーメン入れたりとか。四季で違う」  「ラーメンは何が好き?俺醤油なんだけどさ」 「俺は湯麺(タンメン)。野菜は結構好きなんだ」 「トマトとかナスとかニンジンとか?」 「・・・・柳瀬川、味覚は子どもだね」  笑ったりはしないが、確かに表情が緩んでいる。 「え~だって、トマトのあの爆発する感じとか俺苦手。ナスとニンジンは大丈夫だよ」   喋っている途中で電車が揺れ、咄嗟に座席から伸びるパイプに手をついた。桐生をドアと手をついたパイプからなる手すりのコーナーに挟んでしまう。 「うわ、ごめん。潰れなかった?」 「そんな簡単に潰れないよ」  桐生は俯いてしまう。柳瀬川は背が高いために、下を向いてしまった顔は見られない。 「桐生は細いから、簡単に潰れそうなんだよ」  それでいて、雪のようにも思える。窓の外をみる。そんなに都合よく雪は降っていない。  また沈黙が数分経って、目的の駅に着く。7時頃の外はすでに暗い。イルミネーションがきらきらと輝いている。青や赤、緑、白、ピンク、オレンジ。桐生はどんな反応をするんだろうと横顔を見つめる。感情を表さない瞳に反射したLEDの光がとても綺麗だった。 「やっぱり桐生誘ってよかったわ」  思ったことが口から出ていたらしい。言い終わってから柳瀬川は、あっと口を押さえた。 「ほんとに?嬉しいな。口下手だから、つまらない思いしていたらどうしようかと思って」  桐生が柳瀬川の方をみた。口の端を吊り上げ、涙袋が膨らみ、睫毛が濃く長い瞳が細まる。初めて、笑った顔を見た気がする。それはイルミネーションに浮かされた柳瀬川の幻覚だったのかもしれないが。 「ほら!お腹減っただろ!!何か食べようぜ!!」  電車の暖房の温度はもう身体から消えたはずなのに。勝手に顔がにやけるのを抑え、言葉を探した。  桐生が手を握った。 「迷子にならないように」  遠い記憶の中で、幼馴染の女の子に言われた言葉。あれは保育園のパーティだっただろうか。そのときの光景が脳裏を過ぎった。柳瀬川は手を握り返す。 「何食べたい?」 「柳瀬川が今食べたいものが食べたい」  なんだそりゃ、と笑って、駅前に集まって建っている食堂やレストランを歩いて回る。 「じゃぁゲストな」  ゲストという全国チェーンのファミリーレストランの看板が見えて、柳瀬川は桐生の手を強く握りながら店へ入っていった。      店から出てくるときも、2人は手を繋いでいた。世間の目など気にならなくなっていた。 「映画、楽しみだな!」 「・・・・あ、ああ、そうだな」  駅に隣接したところに指定された映画館があるため、また来た道を戻る。冬の7時過ぎは寒かった。制服の上に着たダッフルコートのポケットに繋いだままの手を入れる。 「さすがに寒いな。風邪引いたら藤咲先生に怒られちゃうだろ」  藤咲先生というのは桐生のクラスの担任だ。 「俺は優秀だから、大丈夫」  ふざけた調子で桐生は言った。あまり笑わないが、冗談は言うようになった。それだけで柳瀬川は嬉しかった。  神津といるときは見せない鉄壁の態度を解す。これが素なら、ずっとそうしていてほしいけれど。唯一の反抗なのだろう。  もう一度駅前で見るイルミネーションは40分ほど前に見たときよりも綺麗だと思った。桐生の頬や瞳に反射するイルミネーションだけでもう十分なような気がした。 「本当は、迷ってたんだ。あのチケット、どうしようかって。友達なんていないから、家族に渡そうかなって。でも仕事で忙しいだろうし、妹もホラー映画なんて嫌だろうなって思ってさ」  キラキラ色が変わっていくイルミネーションから目を逸らさず、桐生は口を開いた。 「でも俺にくれたってことは俺は友達って解釈でいいんだよな?・・・って訊くまでもないか!桐生がお前なんて友達じゃないって言っても俺はお前のこと友達だと思ってるぜ」 「・・・・ありがとう」  神津が友人と呼べる友人は取り上げ、親友も取り上げた。神津は桐生の幼馴染であるが、それだけだ。 「時間もいい感じだし、行こうか」  桐生の瞳がさっき見たときよりも光っていた。それも綺麗だと思いながら柳瀬川は歩いた。  映画館は思っていたより小さく、寂れていた。映画館そのものがホラー映画の舞台にも思える。臆さず柳瀬川は桐生と手を繋いだまま映画館に入っていく。チケットを出して、シアタールームに入った。上映15分前。席はほとんど空いている状況。 「真ん中とるか!」  桐生は黙って頷いた。 「食後のおやつにでもってことで、ポップコーンと飲み物買ってくる。チケットのお礼。奢りな。桐生炭酸大丈夫だっけ?」  桐生は首を縦に振る。「苦手かと思った」と柳瀬川は笑いかけ、またロビーに戻った。1人ぽつんと真ん中の席に残され、桐生は周りを見渡す。10人満たない。まばらに座り、誰も連れがいる感じはない。みんな1人か。ふと頭を過ぎった言葉。理由もなく落ち着いた。慣れていたはず。けれど。けれど笑顔を向けてくる人がいる。無邪気に接してくる人がいる。手を握り返してくれる人がいる。すぐ隣に、いた。慣れていたはずだ。友人というほどの友人なんていなくて。脅迫して従わせてくる人、服従を強いられた人なら確かにいる。肉まんを食べながら、映画に誘ってくれた人は誰だ?  何故彼が、自分の後始末をしてくれる人と同一人物なのだろう。  何故自分を酷く扱う人に従う人と同一人物なのだろう。  何故別れさせられた幼馴染で親友のいとこと同一人物なのだろう。  何故前に付き合っていた女子の幼馴染と同一人物なのだろう。  違う人ならよかったのに。  全ての関係をリセットされている人ならよかったのに。  眼球の裏が熱くなって、絞られたような痛み。視界が滲んで、瞬けばぼろりと零れる。熱かったそれが急に冷めて、頬を伝った。  慣れたはずだ。冷めた毎日に。慣れたはずだ。色のない毎日に。  慣れたはずだ。痛い毎日に。慣れたはずだ。思考が伴わない快感に。 「桐生~。キャラメルと塩があるから好きな方食べてろよ。それから、メロンソーダにしてみたぞ」  紙でできたトレイを両手に乗せ、柳瀬川がやってくる。 「・・・・桐生?」  涙を零す桐生と目が合う。桐生は急いでゴシゴシと目を擦った。 「大丈夫か?」  落ち着いた様子で柳瀬川は席についたホルダーにメロンソーダが入ったコップを入れて、ポップコーンを誰も座っていない席に置いてから桐生に向き直る。 「大丈夫。ごめん・・・」  詳しくは聞かない。暗黙の了解だ。 「美味いよ。飲めよ」  まるで見なかったかのように対応するしかない。力のなさに柳瀬川は唇を噛み締める想いだった。  映画の始まりを告げる音が鳴って、ダウンライトだった空間が暗くなる。スクリーンだけが不気味に光った。  キャラメルポップコーンを口に放って、しゃりしゃり音をさせながらスクリーンを見つめる。塩のポップコーンが入ったカップを持ったまま、桐生は無表情な人形のようにスクリーンに向いていた。  映画の予告が終わり、本編が始まる。無心でキャラメルポップコーンを口に放った。病院に閉じ込められたヒロインと弟がそこに取り憑かれた霊から逃げるか、というよくある展開だった。隣の人が寝ていることなど知っていたために、キャラメルポップコーンがなくなると塩のポップコーンのカップを隣の人の膝の上から取り上げた。寝息を立て、自分の肩に寄りかかっている。柳瀬川はズゾゾゾ、、、と音を立ててメロンソーダを飲み干す。それから、ほとんど飲まれていない隣の人のメロンソーダにも手を出した。次のドッキリシーンはいつだと警戒するように柳瀬川は画面に集中する。  映画は結局はハッピーエンドだった。後味悪くなくていいと思った。スタッフロールとともに照明がダウンライトに変わる。 「桐生。終わったぞ」  肩を揺らしても起きたないため、頬に触れた。目がはっと開いた。 「ごめん・・・・!俺、寝てた・・・・・?」 「ぐっすりと。ま、いいんじゃね。疲れてるんだろ」  桐生は柳瀬川が半分ほど飲んだメロンソーダを口にする。 「あ~あ。間接チュウだな」  ぎろりと睨まれて、柳瀬川は黙った。残りの半分は桐生が飲み干す。少し残ったポップコーンを勧めたが、お腹いっぱいと言って断られた。 「帰るか」  携帯電話の時間を確認して、柳瀬川がそう言った。11時を少し回ったくらいだ。 「・・・・・そうだね」  桐生は一度俯いてから、また顔を上げた。  ゴミをまとめてロビーで捨てた。そういえばなんとなく映画の舞台と雰囲気似てるな、と柳瀬川は思いながら映画館を後にする。  駅に向かって歩こうとすると、付いてこない桐生を不思議に思い振り返る。 「どうした?腹でも痛いのか?」  最初は靴紐が解けたんだ程度に思っていた。 「やなせがわ・・・・・おれ・・・・・っ!」  頼りない街灯で照らされた桐生の無表情は崩れ、涙で濡れていた。一瞬理解できなかった。目の前にいるのが誰なのか分からなかった。知らない人を連れてきてしまったのかと思った。 「帰り゛だぐないっ・・・!がえりだぐないよ、おれ・・・・!」  この歳では自分でもしないような、子どもみたいな泣き方。柳瀬川は駆け寄った。 「き、りゅう・・・・・」  後頭部に手を回し、抱きしめる。胸倉を掴れ、みぞおち辺りに顔を埋められる。嗚咽としゃくり。あの桐生がこんな風に泣くなんて。 「がえりたくないいい!!ずっとごごにいだい・・・・!」  ダッフルコートを握る手が白くなるほど強く握り締めている。 「分かった。帰らない」  美しい顔が崩れるほど情けない顔が柳瀬川を見上げた。 「ホテル探そう」  カバンからいつ貰ったかも覚えていないポケットティッシュを出し、桐生に渡す。ダッフルコートのフードを被せ、泣き顔を見せないようにした。  夕飯を食べるときに見た感じではこの辺りはラブホテルしか見当たらなかったが、寝られればいいと思っていたのでラブホテルに直行した。それに顔をくしゃくしゃにして泣いている桐生を11時過ぎとはいえ人通りのある駅周辺を歩かせたくなかった。  ラブホテルの受付には、背丈や体格的に女性ではないと分かる桐生と柳瀬川を見比べられ、変な顔をされたが、もう二度と来ないだろうからと無理矢理自分を納得させ、鍵を受け取る。チープだと思っていた外観とは違い、内装は普通のホテルとさほど変わらなかった。  桐生がいいところのおぼっちゃんだと柳瀬川は知っていたため、あまりチープで薄汚いところに泊めてしまうことに理屈ではない躊躇いがあった。帝王学院は大体金持ちしか入学できないのだけれど。  ぐすぐすとしゃくり上げる桐生の手を引いて、エレベーターに乗った。胸に引き寄せ、後頭部をぽんぽん叩いた。 「優しくしないでくれよ・・・!」  突き飛ばすこともできただろうに、桐生は消え入りそうな声でどう言っただけだった。 「ごめん」  エレベーターに乗っている短時間だったけれど、謝りながら後頭部をぽんぽん叩く手は止めなかった。エレベーターを降り、部屋の番号を確認していく。 「あの部屋だ」  廊下の隅の部屋だった。飾り気のないタグがつけられた鍵を挿し込み、回す。部屋を開けた途端に入る桃色の怪しげな照明に桐生はここがラブホテルだと今知ったらしく、柳瀬川を見た。 「一番近かったから。風呂入って寝られればいいよな?」  嘘偽りのない笑み。桐生はこくりと頷いた。柳瀬川は鍵を内側から掛けて、靴を脱いでからスリッパに履き替え、1つしかないダブルベッドに腰を下ろす。桐生が後を追ってこない。また立ち上がり、桐生のもとまで寄る。 「ほら桐生。荷物」  靴も脱がずドアの前で目を擦っている桐生に荷物を渡すよう促す。まるで大きな子どもだ。 「靴脱いで」  目が疲れてきそうな照明を変えようと、リモコンを手に取り、色々と押してみる。まともな照明に切り替わり、リモコンをもとあった場所に戻す。その間も桐生は動かないまま泣いていた。柳瀬川は困り果てた顔をした。荷物を力ずくで奪い、手を引いた。慌てて靴を脱いでスリッパに履き替えた桐生を引っ張って、ベッドに座らせた。 「・・・・つまらなかった・・・・のか・・・・?」  柳瀬川は自嘲的な笑みを浮かべて、桐生の顔を覗き込んだ。桐生は強く首を横に振った。 「じゃぁ、どうしたんだよ・・・・?」  しゃくりを繰り返すばかりで、話せないようだ。 「・・・・・・ごめんな。こんなつもりじゃなかっ―っ!」  顔を覗き込むように屈んでいた柳瀬川の首に腕が回り、唇が塞がれる。持っていた桐生の荷物が手から落ちた。嫌だとかどうだとかいう理由はなく、ただ驚きと反射で桐生を突き飛ばしてしまう。桐生は突き飛ばされた方向に倒れるが、ベッドだ。ベッドに仰向けに倒れたまま再び泣き始める。 「ふぅぅっ・・・・」  人間の退化。前の国語の単元はこれがテーマだった。そんなことを思い出しながら、生暖かく柔らかい感触が残る唇に触れる。 「あ・・・・えっと・・・・桐生・・・・・?」  入ってきたときの照明以外は普通のホテルと何ら変わらない内装であるし、ラブホテルだからという変な気に当てられたという感じでもない。ふと横目に入った窓の奥に見えるビルの、さらに奥にあるビジネスホテルのロゴが入った建物に内心舌打ちした。 「その・・・・・な、なんで?」  責めているような口調にならないように気を遣いながら、天井を見つめ涙を零す桐生に訊ねる。 「帰りっ・・・たくない・・・・!ずっと・・・・ここで・・・・!」  目を擦って、嗚咽を漏らす。 「・・・・・ここで、2人で暮らすの?」  桐生が言おうとして、躊躇っていることを拾う。そんなことが出来るなら。 「・・・・・っふ。ふ・・・・ぅう・・・・無理なの、分かってるけどっ・・・!」  桐生は腕で目元を隠してしまう。 「いいんじゃない。桐生となら、いいと思うよ。神津に内緒で、2人でここに住んじゃおうか」  寮の費用よりここのラブホテルの方が安上がりだ。生活に少し困る部分もあるが、桐生が望むならどうということはない。ただ、神津に内緒なんて通用しない。 「そんなっこと・・・・言うなよ・・・・!本当っにっ・・・!」  理想を言ったのだろうか。叶うはずもない理想を。できるはずもないのに。柳瀬川も悲しい、泣きたいような気分になった。犯される毎日がつらいのだろう。柳瀬川も同じ現場にいるために、どんな様子かは分かっている。 「いいよ。暮らそう?神津のことは、どうにかするよ」  どうにかって、どうにだよ。柳瀬川自身、神津に逆らうことはあっても離れることはできない。それは理屈ではなかった。帰らなければならないのだ。帰らなければ、どうなるか。未来が真っ黒に見える。柳瀬川は頭を抑えた。考えないようにしている。神津のもとに帰らなければ、真っ黒なのだ。ただ、もしかしたら、自分の隣に桐生がいるのなら。  イルミネーションを反射していた綺麗な瞳が今は悲しみで濡れている。胸が締め付けられるような痛みと、淹れたてのココアでも飲み込んだかのような熱さと、桐生の涙が沁みこんできたようなしょっぱさと。 「ごめっ・・・・!柳瀬がっ・・・・困らせたいんじゃ・・・・ないんだっ・・・・」 「いいや。ごめんな。できもしないこと言って、ごめん。明日には、帰ろう」 「う゛んっ・・・!。わがった。明日、帰ろ゛う゛」  大きく泣いた。本音を隠せないまま、言葉では柳瀬川に同意した。耳を塞ぎたくなった。帰りたくない。帰したくない。桐生を帰したくない。  桐生が仰向けになっている隣に座った。黙って、膝に肘をついて背を丸めた。携帯電話が震えた。メールだ。画面を開いて、新着メール欄にルームメイトの名前が表示された。今日は帰ってこないのかという内容だった。カチカチとキーを押しながらメールを打っていく。「今日は帰らないよ」と返信した。テレビでも見ようかとチャンネルを取り、電源を入れる。 「あんっ!ああんっもっと激しくし――」  仰向けの男の裸体の上に全裸のカールそた茶髪の女が乗っかり、背を反らしていた。顔がカッと熱くなり、びっくりして電源を切る。桐生の方を慌てて見た。そういえばさっきから音がしない。  仰向けになったまま、規則正しく寝息を立てている。掛け布団の上に寝ているため、柳瀬川は自分のダッフルコートを桐生に掛けた。  風呂に入って寝てしまおう。明日の桐生は大丈夫だろうか。  風呂場は靴を脱いだところにある。すぐ横にあったクロゼットからバスローブを取った。風呂場の曇りガラスが嵌められたドアを開けると、洗面台と透明なガラスの壁。そして円形のユニットバス。ジャグジー付きらしい。湯を沸かすのも億劫だ。ここがラブホテルでなくて、旅行かなんかで、ツレがあの様子でなければジャグジーを楽しむ気も起きたのだろう。溜め息をついてシャワーを浴びた。暫くはぼーっとしてシャワーに打たれていた。シャンプーが胡散臭いメーカーであまり好きではなかったために、有名メーカーの女性物の方を使った。寮ではリンスインシャンプーを使っている。女性はリンスをする手間もあるのか、と思いながら花の匂いがするリンスのポンプを押して、手に出す。桃色を帯びているけれど、どろどろとしたそれは。  フラッシュバック。桐生の後始末の。掌に広がる白濁。 「うわ・・・・・っ」  殴られたような衝撃。誰もが当然のように男である桐生を犯す光景。桐生に限ったことではない。別の生徒も。 「ねぇよ・・・・・」  理解出来ない。桐生は男だ。女性みたいな綺麗さとか可憐さとか美しさとか、そういうのはあるけれど。首を振った。 「無理だ」  無理なのだ。桐生だからではない。 「気持ち悪い・・・・・」  男性に対して肉欲など抱けない。本能に逆らっている。おかしい。有り得ない。普通じゃない。  掌を伝うリンスは流れ落ちていく。それから、もったいないことをした、と悔やんだ。  髪を適当に拭いて、バスローブを巻いて、洗面台に置いてある真新しい歯ブラシを出した。小さめの歯磨き粉を垂らす。歯磨き粉のまずさに顔を歪めながら歯を磨いて、部屋に戻った。 「柳瀬川・・・・その・・・・っ」  桐生は起きていた。 「ああ。先にシャワー浴びちゃった」 「ワガママ言って、ごめんな。付き合ってもらっちゃって」  目元が赤い。顔を上げずに謝る桐生に柳瀬川は笑って「いいよ」と答えた。 「寝よう。疲れてるんだ。お前も、俺も」 「・・・・・ああ。そうだな」  桐生は大きく目を見開いて、戸惑ったような、傷付いたような表情を見せた。それからすぐに、優しい表情に戻る。様々な表情を今日1日で見せてくれたが、それでも何故、傷付いた表情を見せたのか、柳瀬川は眉根を寄せた。 「バスローブは、クローゼットに入ってるから」  返事はなかった。クローゼットの開く音、閉じる音、風呂場のドアの開く音と閉じる音だけが耳に届いた。  ベッドの上に雑に置いた携帯電話のランプが点滅している。メールだ。「あ、そ。女?」と彼らしい短文のメールだ。「友達」の2文字だけを打って送信した。 「寒い」  ドライヤーを探して、テレビの下の棚に入っていた。コンセントを繋いで、ブォオオオーという温風が髪に当たる。 ――一緒に住もうって言ったのは、嘘じゃない。  桐生の泣き顔が頭から離れない。助けたい。友達だから。でも。  髪をわしゃわしゃとかき乱す。ドライヤーの風で髪が逆立った。    ブオオオオオーン     髪を整えずに乾かしていたために、前髪が浮いたり、立ってしまい、ドライヤーの電源を切って、何度も撫で付ける。 ――帰りたくない、か。  背中の火傷が存在を主張するように疼いた。帰れ。帰らないなんていわせない。帰ってこい。この傷を付けた本人が語りかけてくるように疼くのだ。 ――帰るさ、明日。  疼きが治まった。まるで許されたかのようだった。今でもまだ、何となく思い返す恐怖の日々。あまりよくは覚えていないけれど。  バスローブを握り締めた。布越しの冷たい自分の手に気付く。そうだ。この手を、桐生と繋いだんだ。でもきっと、桐生の中で手を繋いだのは、違う人。 ――身代わりだったな、結局は。  いけ好かないいとこの顔が思い浮かぶ。桐生はやはり彼が好きなのだろうか。“そういう”意味で、だ。六平静詩もとい、衣澄貴久。柳瀬川の父方のいとこで、離婚した後、家庭の事情と言うやつで名前がいきなり変わった陰険な奴。血が繋がっているからか、似ているのだろうか。似ていると思ったことはないけれど。  神津も桐生も、そうか、結局は。柳瀬川は諦めた。出会った頃から、分かっていたことだけれど。   ――なんで、残念に思ってるんだろうな。  別に身代わりでもよかったはずなのに。この妙な飲み下せない感覚はなんなのだろう。冷たかった片手が、熱い。  風呂場のドアが開く音がした。青を帯びた黒髪がさらに黒くなって、水滴が落ちている。 「ドライヤー、使うよな」 「ああ。ありがとう」  疲れてそうな桐生に手招きする。 「乾かしてやるよ」 「え」  桐生の動きが止まる。 「・・・・・やっぱり、気持ち悪い・・・・よな」 「違うんだ・・・・なんか、意外だっただけ」  桐生は柳瀬川の前に座った。 「頼む」  桐生が振り返った。柳瀬川はドライヤーの電源を入れて温風を吹きかけた。細い髪質なようだ。自分の髪と同じ匂いがして、桐生も女性物のシャンプーとリンスを使ったのだと分かった。  髪質と印象のせいか目の前にいるのが男とは思えず、優しく丁寧に髪を手櫛で梳かす。項が隠れるくらい横の髪も後ろの髪も長い。 「髪、綺麗だな」 「・・・・そうか?あまり自分でそう思ったことない」  乾かしたあとも、三つ編みをしてみたり、ツインテールにしてみたり柳瀬川は桐生の髪で遊んだ。桐生は後頭部の上半分を結んで下半分の髪を垂らす髪型がよく似合っていた。 「うち、歯科医だからさ。継がなきゃって思うんだけど、俺は美容師とかなりたいんだよね」 「兄弟は?」 「7つくらい歳の離れた姉と7つくらい下の妹がいる」 「そうなんだ。似てるの?」  柳瀬川は難しい顔をして、「目元は似てるって言われることあるかも」と返す。それから「桐生は?」と訊ねる。 「兄と妹だよ。兄は年子。でも婿入りしてさ。ほぼ縁は切れちゃってるんだ。妹は2つ下」  「そっか。年子ってことは18くらいだもんな」  また桐生の髪を編み込み始める。 「柳瀬川は妹さんの髪も結んでるのか」 「実家帰ったら、そうだな。まだ反抗期じゃないから、結ばせてくれるんだ」  男子高校生が何をやっているんだ、と内心柳瀬川は思いながらも桐生の髪をいじるのは楽しかった。編み込んだ途中の髪から手を放してしまい、するすると戻っていくのをいい区切りにして、「さて、寝るか。1時回ってるし」と笑った。ドライヤーを片付けて、ベッドに向かう、。1つしかない大きなベッドにお互い赤面した。  「あ・・・えーっと、俺、床で寝るよ!」  桐生が掛けたのだろうか、壁のから生えたフックに掛かっているダッフルコートに手を伸ばす。 「や、な、せがわが、嫌じゃないなら、一緒に、寝よ?」  ベッドの反対側から桐生は乗った。 「・・・・・俺じゃ、嫌・・・・か・・・・」 「あ・・・違くて、その・・・・・そうだな!一緒に寝よう」  男女で同じ布団に入るような錯覚に狼狽したが、桐生は紛れもなく男なのだ。柳瀬川は考えないように、バスローブを結び直して布団に入った。桐生の方を向かずに、リモコンで照明を落とす。風呂場と入り口のところの照明はダウンライトだ。布団は素材がよく、深く沈んだ。  修学旅行やお泊り会のときのように興奮して寝られないだろうか。目を開いたまま、窓の外を見つめる。ビルがそびえる奥のほうにビジネスホテルのロゴが光っている。じーっと見ながら今日のことを振り返っていた。楽しかった。何か派手な出来事があったわけではないけれど、電車に乗って、夕飯食べて、映画観て。姉妹兄弟の話をして。瞼が重くなってくる。いつもならもっと夜更かしできるけれど。  桐生が笑っている。桐生が笑って、柳瀬川の実家の台所に立っている。夢の中の桐生は女性だった。真っ白いエプロンをつけて、鍋を掻き混ぜ、味見を頼む。   「んっ・・・・んああ・・・ぁん」    意識の遠くで綺麗な声がする。 「あっ・・・・あんん、あ、あ、あ、あ・・・・」    この声を知っているけれど、知らない。 「はぁ・・・・・あ・・・・・っき・・・!っきだ・・・・」    この声は 「き、りゅう?」  視界に色が入る。壁の薄いピンクと、ショッキングピンクのカーテンを閉めていない窓。 「はっ、あん!・・・・ああっ」    がばっと勢いよく起き上がった。 「あっ・・・!?」  バスローブの間に右手を入れている桐生と目が合う。何をしているのか、同じ男なら理解できないわけがない。 「あ・・・・えっと、大丈夫・・・か?」  右手の先はバスローブや布団で見えない。自分で訊いて何が大丈夫なのか分からない。 「やなせ・・・・・がわ・・・・・っおれ・・・・っ」  熱っぽく潤んだ瞳に目が逸らせない。 「桐生・・・?熱でもあ――」 「たすけ・・・・・てっ・・・・・!」  涙がぼろっと頬を伝う。自然に手が伸びた。手が伸びて、涙を掬う。 「どこか、痛いのか?」  桐生は首を横に振った。 「出・・・・せない・・・・・んだっ・・・・」  出せない。出す。何を?柳瀬川は呆然として口がぽかんと開いた。 「イ・・・・・ケない・・・・・の」  桐生の左手が柳瀬川の頬に触れられる。桐生の顔が柳瀬川の顔に近づく。 「ふんっ!?」  押し倒すように桐生が柳瀬川の唇に噛み付くように口付ける。情けないことに、状況が飲み込めず口を開いていた柳瀬川の口内に桐生の舌が侵入する。  桐生の柔らかい髪が頬を撫で、体温があまり高くないのか温かくはない舌が柳瀬川の口内を掻き回す。頭が真っ白になってから、体温が急上昇し、背中が汗ばんでくるのを柳瀬川は感じ取って、状況を把握する。 「ちょっとっ!?」  このまま流されるのは危険だと察した柳瀬川は優しく抱き締めるように桐生の背に腕を回し、形勢逆転するように回り、上下の立場を変える。 「はっ・・・・はぁ・・・はぁ・・・」  桐生は息を切らしながら布団に全て体重を預け、無理矢理犯された後の少女のように怯える表情を向けた。ただその中に、色欲が浮かぶ。 「分かった。抜いてあげる」  バスローブ越しに密着していた上半身を離そうとすると、しがみつかれてしまう。 「お・・・・ねがっ・・・・・抱い・・・・て・・・・っ」  熱い息を吐き、熱っぽい瞳で訴えられる。まだぼろぼろと涙を零す桐生に弱ったな、と溜め息をついた。 「桐生」  冷静に、諭すように名前を呼んで、首を横に振った。 「ふぅ・・・・っ」  咽び泣いて、柳瀬川のバスローブにしがみつく手を強める。おねがい、おねがい、と熱く、小さく懇願する。 「俺は、柳瀬川だよ。桐生が想ってるヤツじゃない」  桐生はこくこく頷いた。それは分かっているようだ。自分で口にして、柳瀬川は惨めになった。身代わりなんだと、自分ではっきり認めてしまうのを、頭では分かっていても、躊躇していたのに。 「抱かない、って、約束、したろ」  初めて桐生の行為の後始末をしたときに誓ったのだ。あれは嘘ではない。それが本心であろうが、形式的なものであろうが。 「その代わり、要求は全て呑むから」 「・・・・・んっ・・・・ああ・・・・やなせが・・・わっ」  桐生のバスローブの合わせの間に手を入れる。すでに固くなって、熱くなっている桐生のソレに触れた。冷たい手に驚いたのか、ひっと呻いた。指先が温まる感覚に心地よさを覚えながら桐生の陰茎を掴んで、扱く。  桐生は柳瀬川の首に両腕を回し、キスを強請る。柳瀬川は応えて、桐生の唇を受け入れる。 「んっん、ぅっん、ぅん」  嚥下しきれない唾液が桐生の口の端から滴る。舌が絡み合い、口内を犯す。酸欠のせいなのか、興奮で頭が浮かされているのか、ぼーっとしてしまう。息を吸い込むために一度口を放す。物足りなさそうな、切ない表情を見るはめになり、胸がぎゅっと摘まれた感覚に陥る。 「いいとこ、自分でいじって」  肩肘で桐生と自分を支える。暗示に掛かったように桐生は自分の胸に右手を伸ばす。胸の突起を指でいじりながら嬌声を上げる。胸を突き出すように腰がしなり、背が反り返る。 「どうしてほしい?」 「うし・・・・ろ・・・・ン・・・っ」  桐生の左手が後孔に向かう。それを制するように柳瀬川は扱いていた手を放し、桐生の左手を掴んだ。爪が長いことに気付いてしまった。粘膜を傷付けそうで怖い。  桐生を放して、ベッドの横の引き出しを漁った。ここはラブホテルなのだ。 「ぃ・・・・や・・・!柳瀬川が・・・・いっ・・・・い・・・」  桐生は顔をそむけてそう熱い声でそう言った。顔が熱くなる。 「指で、い・・・・からっ・・・・おねがいっ・・・・」  震える声に勝手に口は開く。下腹部に熱が集まってくるのを感じた。 「わ・・・・・かった」  バスローブをたくし上げ、桐生の小さな双丘を開き、現れた蕾に躊躇いなく舌を這わせる。桐生の手が掛け布団を掴む。 「ゃあっ・・・・!」  十分に唾液で濡らしてから、爪を立てないよう指の腹で蕾を開くように、中指を挿入していく。 「ふぁああ・・・・・ンンっ・・・!」  第二間接まで埋め込まれる。ここ最近は神津もその取り巻きも桐生を抱いていないようだ。 「痛かったら、言えよ」  まずは中指を全て挿入できるくらいには解そうと、ゆっくりと根元まで入れていく。 「あああ!・・・・あ・・・・」 「大丈夫か?」  脳震盪を起こしそうなくらい桐生は縦に首を振った。小刻みに震えている。 「かわいい・・・」  中指で出し入れをゆっくり繰り返しながら上半身を伸ばし、桐生の髪に口付ける。ぽろぽろ涙を零す頬にも口付け、熱い息を吐く、薄紅に色づいた唇にも啄ばむよう口付ける。桐生との初めての口付けはこの部屋に来たときに呆気なく終わった。それまでは一切、なかったのだ。後始末というだけの、事務的な桐生との性行為だった。だからこうして、桐生の意志を汲み取って、そして自分の意志での行為は初めてだった。 「はぁ・・・・・ンあっ」  首筋、鎖骨にも啄ばむようキスし、立ち上がった胸の突起を舐め上げた。その頃にはもう後ろはやすやすと中指全てを呑み込んでいる。二本目に人差し指を優しく挿入していく。ローションや潤滑油を使っていないために、気を遣ってじれったかったが桐生を傷付けたくない一心で丹念に解していく。 「きもち・・・・・・いっ・・・はぁ、あんん!!」  腹筋、へそに唇をタッチし、それから。それから勃ちあがった陰茎を口に入れた。相手が相手だったからだろうか、躊躇いがなかった。同性だとは分かっていながらそうだと認識できない桐生のそれが幻覚に思ったのかもしれないし、ただ流されてしまっただけなのかもしれない。根元から先端まで舌で舐め上げる動作を繰り返し、先端は口内で扱くように頭を動かす。快感から逃れるように桐生が柳瀬川の頭を押す。ちょうど、人差し指も全て入りきったところだった。 「やなせが・・・わぁ・・・・!」  また噴火するように泣き出しそうな声で名前を呼ばれる。笑いかけて、呑みこまれた二本の指を動かす。 「ん・・・あ・・・イイ・・・・・・んっ」  彼に快感を与えられると思われる部分を指の腹で引っ掻くと、背を反らせて嬌声を上げる。 「うぁっんん、ああ・・・!」  空いたほうの手で桐生の空いた手を取り、桐生自身を握らせた。その手の上に柳瀬川は手を置いて、扱かせた。 「ん、んふぅん・・・・ぁあっ」  女性と人生の中で一度たりともこういうことをしたことがない。それなのに、同性間で先にこういうことを学んでしまった。しかもおそらくは身代わりなのだろう。柳瀬川は引き裂かれそうな胸の痛みに耐え、桐生のを扱いていた。 「も、もう・・・・・・・・っイ、ク・・・!あン、ああっ、やなせがっ・・・!あいし――」  聞いてはいけない。  反射的に唇で口を塞いだ。  桐生の肩が跳ね、内腿が震え、身体が痙攣する。桐生の指の間から溢れて柳瀬川の手まで溢れる。  我に返って、桐生から慌てて身を引き、自分が寝ていた隅に座って、桐生に背を向け、指についた粘液を見つめた。下半身の熱が冷めていく感覚に、ゾッとした。  男の象徴を口にいれ、扱いた実感がじわりじわりと広がっていくように理解する。男同士で気持ち悪い。触りたくない。気色悪い。自分のやっていること、やったことに否定的な単語ばかりが浮かぶ。いくら綺麗でも桐生は男。セックスしたところで実を結ぶことはない。それならこの行為の延長に何がある?本能に逆らっている。陰痿(いんい)ということはないが、男相手には反応がない。 「ごめっ・・・・なさい・・・・・」  肩で息をしながら思考が正常に戻ったのだろう桐生は、さきほどとは別人のように戸惑った表情を浮かべている。 「ごめんなさい・・・・・っ・・・軽蔑しないで・・・・・っ」    軽蔑?この冷めた感覚が軽蔑なのか?  桐生が男であることに絶望している自分がいて。桐生の目に映っているのは自分であるのに、別の誰かだということが残念で。もう泣かせたくないと思いながらも、どこかに連れ去ってしまうこともできない自分が不甲斐なくて。 「柳瀬川にだけは・・・軽蔑されたくないんだ・・・・・!」  桐生の額が、乱れて開いた柳瀬川のバスローブの奥の胸に当たる。艶やかな髪がくすぐったかった。 「軽蔑・・・・・?」 ――ああ、分かった。俺が俺に軽蔑しているのか。   「バカ。友達だろ。こんなことで軽蔑しないよ」 「ともだち・・・・?」  自分は上手く笑えていただろうか。誤魔化したように笑ってはいないだろうか。 「俺たちは・・・・ともだちじゃないっ!普通の友達は、こんなこと・・・!」  桐生の嫌になるくらい冷静になった頭が、残酷な世間一般の常識を紡ぎだす。柳瀬川が思っていたことが桐生の口から吐かれてしまう。 「友達だ。お前が何言っても。普通じゃなくても、歪んでても、爛れてても、俺は・・・・俺だけはお前の友達だ。友達で、いさせてくれ!」  友達でいい。1番になれなくてもいい。本物から奪い取った、身代わりの枠でもいい。恋人になんてなれないのだから。 「ごめんなさい・・・!ごめんなさい・・・ごめんなさい」  桐生は縋り付いて泣き崩れた。今にも消えてなくなりそうなその肩を抱いて、布団に入った。 「俺こそ、ごめんな。助けてやれない。お前を連れ去ってやれない」  友達だと自分で口にしながら、また陵辱と服従と孤独の底なし沼に突き落とすしかできない。  いつもは凛としていて冷めている仮面をつけているのに。本当は儚くて、怖がりで、幼い。    ごめんな、ごめんな。ごめん。 身代わりでもいいから、隣にいたい。      寝息を立てる友人を胸におさめて、瞳を閉じた。

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