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第105話 ア

「なぁ」  高宮の肩を叩いたのは小田桐だった。 「わぁ!」  びっくりして高宮は声を上げてしまう。小田桐は高宮の近くの席に座り、椅子の背凭れを抱きしめるように高宮に向いた。クラス中の視線が小田桐に集められ、うるさかった教室内が一斉に静かになる。 「なんだよ、自由にやっててくれや」  小田桐はいづらそうにクラス内を見渡した。 「あれ?有安さんが小田桐先生のこと探してましたよ」 「すれ違っちまったか。いいや、行ってくる。話はまた後でだ」  ニヤニヤした表情からいきなり真顔になる。高宮はきょとんとして、はいとだけ返事した。  小田桐は教室を出て保健室に向かおうとしたが、保健室の片方のドアに不在の紙を貼ってあることを思い出し、先に職員室に向かうことにした。  高宮に、動画がすでに出回っていることを言うつもりはなかった。そして様子からおそらくは柳瀬川のことは知らないのではないかと考えている。先程の穏やかそうな高宮を混乱させるのも躊躇われる。養護教諭としてカウンセリングを申し出ようとしたが、かえって高宮を傷付けるだけかもしれない。     職員室に向かう渡り廊下で、赤いスーツの女性教諭と会う。今日も派手めで、毛先がくるくる巻いてある明るい茶髪。男子校には相応しくないと思いながらも、華がないここには居てもいいかもしれないと小田桐個人は思っている。 「こんにちは、長谷部先生」 「こんにちは、小田桐先生」  美人で愛想もいい。ただ一つ気に入らないのは、神津とは、生徒と先生の域を越えた関係がある、そんな小田桐の中だけの疑惑だ。男女の関係とも違う、姉弟(きょうだい)とも違う、強いていうならそれは、親子のようにも見えた。  長谷部は渡り廊下の窓から外を見下ろしていた。用務員が植木の伸びすぎた枝を切っているところだった。 「どうなさいました?」  挨拶だけして、また窓に向き直る長谷部の姿は絵になる。女性教諭は他にもいるが、小田桐を嫌い近寄らない。憂いを帯びた窓際の女性という構図は惹きつけられた。 「いいえ。特に、何も」  長谷部は目尻が少し上がっているからか、睨んでいるような印象を持ってしまう。小田桐は愛想笑いして、誤魔化した。 「そうですか。何か面白いものでもあったのかと思ったので」  小田桐は軽く頭を下げて、再び職員室に向かった。 「先生」   職員室のドアを開けるやいなや呼ばれ、辺りを見回す。だが姿がない。そのまま前進すると胸の辺りに違和感があり、視線を下げると生徒の頭が胸に当たっている。 「先生、衣澄の話なんですけど」  生徒はそのまま顔を上げる。大きな瞳な瞳の、高校生には見えない童顔の生徒。 「えーっと、有安君だったっけ」  職員室では人当りのいいにこにこした先生を演じている。有安は不快な表情を見せ、腕を掴むと職員室の外へ引っ張りだされる。 「衣澄がどうかしたのか」 「柳瀬川の見舞いに行ったときから、学校に来てないんです。病欠って提出されてるらしくて・・・」  有安を見ながらも、視界の隅で赤いものが職員室に入っていく。おそらく長谷部だろう。 「保健室の名簿見ないと分からないな」  有安は意味ありげに小田桐を見つめる。なんだよ、と首を傾げると有安は呆れたように溜息をついた。 「本当に病欠なら、いいんですよ。ただ、なんか心配で」   目を伏せ、視線を逸らすその姿は愛しい人を待つ乙女そのもの。引き攣った笑みを浮かべて小田桐も有安から目を逸らした。 「寮には居るのか?」 「居ないみたいなんです。一緒に居たお姉さんのもとにいるのかな、とも思ったんですけど」  背の高い、衣澄と同じ顔をした黒髪の美女。彼女を思い出す。 「そうか。最近平和だったから、ボケてたな。薫もとっとと回復すりゃいいのによ」   小田桐が保健室の方に歩くと有安もついてきた。  柳瀬川のことがあってから剃っていなかった無精髭を撫でる。有安がそれを顰め面で見上げたが気にしない。職員室の近くの階段を下りればすぐに保健室に通じる暗い廊下に出る。猛暑日でなければ近寄りたくはないような、不気味な廊下。階段から差し込む光で段を踏み外すことはないけれど。 「職員室で、衣澄のこと訊いたんです。でも病欠だって。本人からの連絡なんだって。おかしいですよね。どうして保護者通さないんでしょう」 「信用されてんだろ。次期生徒会長の候補とか言われてなかったっけか」  小田桐は生徒の事情は柳瀬川以外のことは把握していないが、ただ分かったのは有安が衣澄に特別な感情を抱いているのではないかという疑いだ。教師という立場上、あまりそういったことは認められない。 「はっきり言いますよ。神津は貴久・・・衣澄のことが嫌いなんですよ」 「ああ。それはなんとなくだが想像できる。でもどうしてだろうな。2人は幼馴染なんだろ」  滑り落ちるように、けれどリズムよく小田桐は階段の残りを駆け下りる。有安は小田桐の脳天を見つめた。 「小田桐先生」  小田桐は立ち止まる。有安もその場で止まった。 「なんだよ」 「本当に、衣澄がただの病欠ならいいんです。それに越したことはないですから」  念を押すように有安はいった。柳瀬川が意識不明になってから自分が過敏になっていたということを小田桐は自分で分かっていたが、有安も過敏になっている気がする。 「でも他の先生に話すより、小田桐先生の方が成り行きを知っているでしょう。先生のことは胡散臭いって思ってますけど、小田桐先生しか頼れませんから」  それはそうだろうと小田桐は思った。自分の孫が売春させられ、動画まで配信されているなんて知ったら理事長はぽっくり逝ってしまうのでは、などと縁起悪い考えが浮かぶ。とはいえ神津のような悪童を野放しにしている学院にも責任はある。立派な犯罪だ。いずれこのことは明るみに出て学院ごと消えるだろうか。 「教師なんてのは、表面上しか見られないもんだ。優等生は裏でも完璧な優等生。そう思っていたいんだ。衣澄がとんだ不祥事に巻き込まれてるなんて考えたくもないんだよ。優等生に理想と夢を押し付けたいんだ」  まだ衣澄が不祥事に巻き込まれたとは決まっていないけれど。有安は不快感丸出しの表情で小田桐を睨む。 「それは、小田桐先生もですか」 「ああ。職員室で揉まれていくうちに、人格は矯正されていくんだ。有安君も教師を目指したら分かるさ」 「それは素晴らしいご提案ですね。参考にさせていただきます」  心にもなさそうに有安はそう言った。 「次の授業は」 「古典ですけど」  間を持たせようとするような、話題の逸れた問いに有安はぶっきらぼうに答える。  小田桐がそうか、と雑に返事をしながら腕時計を見たのと同時にチャイムが鳴った。 「チャイム鳴っちまったな。どうするんだ」  有安は顔を顰める。お前の無駄話のせいだ、と言われているような気がして小田桐も苦い笑みを浮かべて有安を見た。 「なんか分かったら伝えるから授業には出なさい」  小田桐はそう言うと納得したのか有安は一礼してまた下がってきた階段を駆け上がっていく。ただの病欠だったときに、衣澄に遠慮させてしまうかもしれないと思うと授業に行かせたほうがいいのだ、きっと。 「めんどうなことになったな」  額を押さえて保健室に向かう。暗く肌寒い廊下にはもう慣れている。職員室と保健室の最短ルートだ。この廊下を避けてまで遠回りしようとは思わない。ただ暗いだけでなく、保健室の(はす)向かいにあるパソコン室の光も不気味さを助長している。猛暑日はこの廊下に生徒がたむろって弁当を食べたりしているが、5月が終わり6月の始めのこの時期ではまだ早いようだ。 軽快な音を立てる健康サンダルは水虫対策で、スラックスにシャツ、その上から白衣を羽織る姿は、職員室でも不評だ。公立高校じゃないんですから、と偏見を含んだ言葉をよく年老いていっそうヒステリックさが増した女性教諭に注意される。保健室に向かう途中の調理室の前にさしかかったところで、大きな物音がした。いや、物音ではない。悲鳴だ。けれど上に響くようなほど大きい声ではなくて。小田桐は走った。保健室の方か、パソコン室の方か。 「大丈夫か?」  保健室のドアが軋むくらい乱暴に開ける。ここは自分を敬遠してあまり利用者はいない。どちらかというと図書室の応接室を保健室代わりにしている生徒が多いくらいだ。 「しおりぃ・・・」  呻くような低い声がする。 「誰だ」  カーテンも閉めず、小田桐に背を向けるようにベッドに乗っている生徒。くしゃくしゃ黒髪で、上半身は裸である。 「お前は」  小田桐が名前を言い当てようとするのと同時に肩越しに振り返る男子生徒。口の周りは真っ赤に染まり、蒼白な顔面によく似合う。吊り上って口角は愉快を表しているように思える。 「何して・・・」  視線を移せば、この男子生徒の下に誰かいる。人形のように動かず、気配もなかった。  小田桐は男子生徒を突き飛ばしてベッドから落とし、男子生徒に埋もれているように敷かれた生徒を確認する。顔中に血が付き、鼻血を流しながら意識を失っている。首を二ヵ所怪我しているようで、傷口はいやらしくひかっている。シャツの襟は真っ赤に染まりシーツにまで血が付き、大きな赤い花のようだ。  顔をみれば、この生徒が数日前に有安と共に病院に連れて行った生徒だと知る。自分を上回るハッキングができる生徒。天城だ。 「お前、なにして・・・」 「しおりに触るなぁ!」  このゾンビのような男は、長沢という。4月までは誰もが口を揃えて「優等生」だというだろう。寮長という任に就いて、教師からの評判もすこぶるよかった。小田桐も長沢と関わったことがあるが、物腰を柔らかい丁寧な生徒だったと記憶している。  長沢は天城を小田桐の手から奪おうと処置を邪魔する。正気でないのだ。何かに取り憑かれているかのようなその様に正気など見出せない。正当防衛といえばどうにかなるだろうか。小田桐はスラックスのポケットに手を突っ込んだ。上司の、ネクタイを締めろという小言を思い出しながら、ネクタイを取り出し、長沢をどうにか押さえつけ、縛りつける。痩せ細って以前のような健康の面影もない長沢を押さえつけるのは容易であった。  他の先生同様に屈託のない笑みで挨拶をくれる長沢の姿を思い出すと、罪悪感が胸に痛い。  小田桐は長沢を拘束するとすぐに天城の方に移った。新しいガーゼや消毒液、脱脂綿の入った箱を取ってきて、丁寧に処置をするが、保健室の設備だけでは治療ができないだろう。事務机の内線に素早くコールし、救急車の手配を頼む。犬や猫ならとにかく、人間の噛み傷を高校で看ることになるとは思わなかった。真っ赤な視界から目を逸らした視界は緑を帯びて見えた。

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