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第106話 サ

*  奏詞は高校にも通わず、ふらふら歩いていた。都会から取り残されたような、古臭いけれど懐かしさがある商店街だ。 気分が軽く、レトロな風景を見つめながら、漬物のにおいや魚屋から漂う生臭いが食欲を誘うにおいを嗅ぎ、気分転換には十分だった。女との関係も落ち着いた。杏里という頭の軽い女と別れ、今のところは朱里という1つ学年が下の女に言い寄られている程度。どいつもこいつも、同じ格好をしたがって、正直どれも同じ。杏里は髪を染めろ染めろと煩かったけれど、どうしてわざわざあの男と同じにしなくてはならないのだ。あの男は地毛だが茶髪だ。それなら自分は髪に色は絶対に付けない。  八百屋の横に設置された自動販売機の前まで来て、ポケットに入っている小銭で何か買おうとしたが、目に入ったハイミルクチョコレート色の缶に不機嫌になりそのまま通り過ぎることにした。様々なところで目にする色に奏詞は不機嫌になる。材木の色、チョコレート、小物。脳裏にちらつく男をどうこの世から、自分の中から、消そうかと考えては日が暮れる。高校の友人、杏里含むその他の女には姉と自分という双子で通している。  不快感を抱きながら商店街を歩く。老婆や老夫婦が行きかい、若い奏詞は少し浮いている。気前のいい八百屋のおじさんや漬物屋のおばあさん、鯛焼き屋のおばさん。ここの雰囲気が好きだ。やたら豪華な食も、華美で高額な壺も売っていないが、誰でも受け入れてくれるような温かさがある。杏里や朱里、他にも名前を覚えていない言い寄ってくる女がいる世界とは隔絶された、奏詞にとっては避難所のような場所。 昔ながらの造りのように見せている店舗や、都会ではなかなか見ない奇抜な橙のテントを軒に張った店舗を歩きながら目で追っていると、狭い路地から少女が現れる。艶やかな長い黒髪をなびかせ、奏詞の方を向いた。赤いリボンでツインテールにしていないが、奏詞には見覚えがある。口元が緩んでしまい、情けない表情をしているのではないかと奏詞は一度頬を叩く。少女は奏詞を見て大きい目をさらに大きくした。驚いたのは奏詞の方で、以前コンビニで見た時よりも大人っぽい。 「あ・・・・あんた」  少女の方も気付いていたようで、奏詞が声を掛けると、少女は数度頭を下げる。 「以前は本当に、ありがとうございました」  耳を(つんざ)くようなやたら高い声ではなく、しっとりと穏和(おとな)しい声に奏詞は落ち着く。 「覚えててくれたのか」  まだ杏里と付き合っていた頃、コンビニで出会った挙動不審な少女だ。彼女を見て、杏里と付き合っていることにバカらしさを感じた。 「はい。あ、あの、この前のグミの代金っ・・・!」  思い出したように、はっとして少女は鞄から財布を出す。それを奏詞は制した。 「いいって。オレの気分だったんだから。それよか、名前教えてよ」  180近くある奏詞を見上げる、大きく見積もっても160あるかないかくらいの華奢な少女というのは奏詞に何とも言えない興奮をもたらした。 「え、名前・・・ですか?」  いつもは一度意味ありげに笑ってあげるだけで女は簡単に操れるのだが、何故か、この少女にだけはそうしたくないのだ。 「そ、名前。あ、そっか。オレは六平奏詞」 「ろ、ろくひら、さん。私は神嶋っていいます。神嶋(かみしま)弥代(みよ)っていいます」  にこりと笑った彼女がかわいくて、衝動的に抱きしめてしまいたくなった。 「神嶋さんか。今何しているところなの?」 「あ…今…えっと」  視線を泳がせ、困惑した表情を浮かべる。 「ごめんごめん。不躾だった」  顔を赤くして俯いていしまう神嶋に胸が躍った。こういう女性が好きだ。 「いえ・・・」 「神嶋さんここの人?」 「違いますよ。道に迷ってしまって」  好機とばかりに奏詞は、人の好さそうな笑みを浮かべ、自分が案内することを提案した。     「楽しそうだな」  胸の辺りがジワリと温かく、衣澄の表情には笑みが浮かんだ。姉か弟か。自分が何も感じていないと際立って流れ込んでくる別個体の感情。  降ってきた声に顔を上げると、神津がそこに立っている。ここで目覚めて初めて神津の姿を見たが、疲れてしまって騒いだり、慌てる気も起きない。 神津は衣澄の姿を見つめた。制服のまま靴下だけ脱がされ、足首に枷が付いている。枷から伸びる鎖は壁から伸び、衣澄は壁に寄りかかり座っていた。 「楽しいのは俺ではないがな」  真っ白い壁に真っ白い床。真っ白いカーテンが揺れ、その奥にやっと緑や青と色がある。 「とうとう気が狂ったのか」  数日間この部屋に閉じ込めている。足首の枷の鎖が許す範囲で衣澄の行動は自由である。 「いたって正気だ」  柳瀬川の見舞いの帰りから記憶がない。病院を出て、すぐにここに連れてこられたのだろう。目覚めたときは暴れたが、数日も経つととうとう慣れて、暴れることもやめたし、何より冷静になれた。姉は無事だろうか。心配していた学校や部活はどうなっているのかも飽きるほど考え、飽きてきた。  神津は冷たく衣澄を見下ろしたが、衣澄はまた俯いた。 「お前自体に恨みはもうなくなった」  名前が変わって再び帝王学院に姿を現したときのことを衣澄は思い出した。自分と桐生で避けてしまったことがある。深く傷付けてしまったのだろうな、とは思った。そしてそこから傷が広がって、広がって、広がって。 「お前には、な」  念を押すように神津は言う。衣澄は黙って聞いていた。足を動かすと枷の金具が白い床に擦れ、黒く汚す。衣澄の周りは黒い汚れが多い。 「なんで、薫をリンチしたんだ」  怒りも何も沸かない。ただ気になったことを訊いた。神津は眉間に皺を寄せた。お互いの表情を見ていないけれど。 「俺のデータを盗んだから」  データのコピーはしてあった。そのデータが盗まれたというよりも、盗まれたという事実に腹が立ち、焦った。 「それだけか」  衣澄自身はこの問いに興味はない。小田桐から問われたことを神津に問う。興味はないけれど知らなければならない気がした。小田桐に与えられた役目のような感じがした。知らなければお前に用はないと言われているかのような。 「俺の元から離れるというのが許せなかった」  素直に答える神津が意外だったが、やはり衣澄には興味がなかった。柳瀬川が選んだ道だ。自分は何度も止めたのだ。 「どうでもいいな。正直。薫がどうなろうが」 「ふん。お前が訊いたクセによ」  視界に入った足首が細くなった気がして、衣澄は足首を掴んでみたが分からない。 「父がいて、母がいて、妹がいて、あいつが羨ましいと思ったんだ」  衣澄が口を開いた。独り言のようだった。 「心底、羨ましいと思った」  神津は黙っている。 「妬みだな。醜い男の妬みだ。俺は薫になりたかった。薫みたいに育ちたかった」  この監禁生活で精神的に参っているのか、衣澄は感情の籠らない言葉を紡いでいく。 「薫が入院したって知って、ほっとしたんだ、俺は。俺の言う通りになったっとな」  神津は少しだけ目を見開いた。 「不謹慎だろう。いとこなのに。血が繋がってるのにな。死の瀬戸際になって、内心喜んでたんだ」  窓からそよ風が吹き込む。カーテンが揺れ、神津は窓が開いていることを思い出した。 「神津。頭の良いお前なら分かるか。俺はどうしたらいい。俺は薫になれない。俺は」  我に返ったのか衣澄は顔を上げた。顔を歪ませている。困惑だ。 「忘れろ」 「ああ」  神津の潔い返事に安堵と戸惑いが生まれる。けれど根掘り葉掘り訊いてこないことに助けられる。 「すまなかった」 「なにが」  神津はじろりと衣澄を睨んだ。  父がいて、母がいて、妹がいて。衣澄は神津の身に何が起きたのか知っていた。当時の神津の姓、大須賀家が無理心中を図った事件は神津が転入する少し前から聞いていたのだ。長男が生きていることだけニュースで知り、次男の生死は明らかにならないままそのニュースは埋もれていった。自分と同じように姓も名前も変わったことに驚いた記憶もある。 「家族のことか。俺には養父(ちち)義兄(あに)もいる。養母(はは)はもういないけどな」 「もう、大須賀には戻れないのか」  神津が、悪い噂しか聞かないやつに見えなくなった。 「当たり前だろ。いくら神津家に金かけてもらったと思っている」  数年ぶりにまともに話す神津は衣澄の知っている大須賀と同一人物であるのに違った。甘ったれて泣き虫だけれど負けん気の強い大須賀(おおすが)(こう)の姿はない。 「俺はもう大須賀じゃない。お前を恨んでもいない。でも、俺の計画の駒になってもらう」  煮るなり焼くなり好きにしてくれ。神津が出ていくのをみて、衣澄は壁に凭れたまま、滑るように横になった。鎖がジャラジャラと鳴った。  

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