107 / 109

第107話 キ

*  衣澄が寝ている間に適当に作った握り飯を置きに行き、毎日皿だけになっていることに安堵していた。そして今日、意識のある彼に会った。もともと感情の起伏に乏しいことは知っていたが、罵られたり詰られたりするのかと思っていた。だが、一緒にいたはずの姉のことはどうでもいいようで、しかもいとこに至っては妬んでいたというから神津は驚いた。罵るべき自身に、懺悔の真似事をする。  姉だろうが、いとこだろうが、別個体だ。同じ血が流れていようが別個体で赤の他人。導き出た答えに納得する。 ―――義兄(おとうと)よ  ふと聞き慣れた声で呼ばれる。幻覚だと、幻聴だと分かっている。目の前にいる車椅子の義兄は妄想の産物だと分かっている。けれど自身に語りかけ、ときに煽る。 「なんですか」  返事をしなければこの幻覚は延々と神津を呼ぶ。 ―――君がダメにしてきた人々にも家族がいることを忘れているんじゃないのかね    家族。本能のままに子を産んで、自己満足して、それで?その結果殺されたではないか。今もこうして生きているけれど。熱湯を飲み込んだように暑くなる。  神津に与えられた別荘は神津家や義兄に与えられた別荘と比べるととても小さい。だが白を基調とした造りと、庭の緑が気に入っている。 「きっと前向いて生きていくぜ。人間なんてそんなもんだろ」  衣澄を監禁している部屋は廊下の隅にぽつんとあって、風通しがよい。以前はあの部屋で犬を飼っていた。だが義兄にハンバーグにされ、食わされるという嫌がらせを受けて以来ずっと使わないでいた。とても可愛がっていたのに。あの部屋には愛犬との楽しい思い出ばかりだったために、避けていた。大理石の廊下を歩いて2階の自室に向かう。使用人は誰1人いない。電話をすればすぐに迎えがくる。だから心配はいらない。長谷部も今頃は学校で授業だろう。 ―――君は弱ね。自分の身に降りかかった悲劇に、他人を巻き込んで。 「義弟(おとうと)に妬いて嫌がらせを仕掛けてくるヤツに言われたくないな」  幻覚に向かって何を言っても無駄だ。神津は適当にあしらって自室に戻り、内側から鍵をかけるが、煩い義兄は物理的なものではないことを思い出し、鍵を解いた。USBカードやSDカード、CD-ROMが散らかっている机の前にくると、ノートパソコンの電源を入れる。俗世間から隔絶されたかのように田園風景や山が広がる窓に向いた、皮張りのソファに崩れるように座ってパソコンの起動を待つ。ソファの上で横になる。片腕を枕に、緑と淡い青の広がる窓を見つめた。ここの別荘は2階建てだが、民家でいえば3、4階くらいの高さに相当するのではないか、それくらいに高い位置から外を見下ろせた。ここの風景を見ていると大須賀だった頃のことも、神津家のことも、学園生活のことも、別世界で、平和な世界が広がっているように感じる。 目の前の世界で生きていられたら。 ―――無理に決まっているだろう。何人の人生を狂わせたと思っているのかね。    義兄の幻覚が視界の隅に現れる。車椅子を自力で動かす仕草もまるで本物。 「何人だろうな」  自嘲的な笑みを湛えて、ただじっと窓を見つめる。 ―――家がダメになったり、他人の人生を狂わせたり、君と関わると碌なことがないね。 「義兄(にい)さんの人生も狂っちまったな」  義兄の幻に言われて、真っ先に脳裏を過ったのは柳瀬川だった。高宮でも、桐生でも、樋口でもなかった。衣澄でも荻堂でもない。おそらく、淡い青の中を飛んでいく一羽の鳥を見つけたからだろう。彼の背中の焼印は翼なのだ。神津はそういうことにしておいた。 ―――あれで彼が死んだら、どうするんだい。    じっと鳥を見つめた。見えなくなるまで。それから口を開いた。 「いっそ、あのまま死んじまった方がいいのかもな」  両脚は大火傷を負っているはず。ダンス部だとかバスケ部だとか言っていたけれど、復帰は難しいのではないか。腕は骨折させた気がするし、火傷も負っているはず。歯科医を継がせられるだとか言っていたのを思い出したが、険しいリハビリが必要になるのではないか。顔の右側だって、包帯で巻かれて軽い傷ではないだろうに。 神津は窓の奥を見ながら考えた。将来を奪ったのだ。   ―――君は別に、彼が自分の元から離れることに抵抗はなかった。むしろ、  義兄の幻は最後まで言わなかった。神津も聞きたくはなかった。  瞼が少し重くなった。身体から力を抜いて、狭まってくる視界の中でも緑と淡い青を見ている。  散らかった机の上のノートパソコンはすでに立ち上がって、真っ青な初期のままのデスクトップが光っている。 ―――君はひどい人間だ。君は愚鈍な人間だ。関わったすべてを不幸にするんだ。   一緒にいて当たり前だと思ってたんだがな。  当然のように頭に浮かんだ言葉に、はっとしたけれど、泥沼のような眠気に神津は抗えなかった。   「(こう)」   母が優しく呼ぶ。肩を揺すられて起きると、そこは車内だった。 「兄ちゃん大丈夫?」  助手席に座っているのは隣に座っていた筈の弟の(かける)。 「次のサービスエリアも止まるか?」  父の柔らかな声。 「もう吐き気は大丈夫なの?」  母は袋を口元に差し出した。顔は見えないけれど、きっと心配そうな表情を浮かべているはず。 「我慢しなくていいんだぞ」  運転席に座る父は真っ直ぐ前を見ながらハンドルに手を掛けている。翔は足をばたばたさせてはしゃいでいる。   やっととれた3連休で水族館に出掛けたときの思い出。最後の綺麗な思い出。   くだらないな。   自分と弟を殺す選択をした両親が、こんなに優しいはずがない。こんなに理想的なはずがない。   都合のいい夢でも、絶対に許さない。

ともだちにシェアしよう!