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第58話

俺が龍ちゃんの部屋で想いを打ち明けた日。 龍ちゃんは俺のワガママを聞いて、すごく優しいキスをしてくれた。 しかも、ほっぺでも額でもなく、ちゃんと唇に。 あくまで俺のお願いをきいてくれただけだが、恋い焦がれた人との初めてのキスは俺にとっては特別で、忘れないよう何度も龍ちゃんの唇の感触と脳がしびれるような歓喜を脳内で反芻した。 そしてあのキスは、『嫌いな相手にはキスはしないよな?』と俺の縋りつきたい希望の支えとなっている。 それから、俺が送り続けているメッセージ。 忙しいだろうから返事はいいといっているのに、龍ちゃんは移動中の時間などを利用して、ちょこちょこ返信をしてくれるのだ。 頻度は決して高くはないが、『蒼もちゃんと今の俺をよく見ろ』なんて書いてあったりして、龍ちゃんが俺との関係を前向きに検討してくれているのではないかと期待してしまう。 もしかしたら、もしかしたら・・・龍ちゃんは俺を受け入れてくれる? そんな風に気持ちが浮上した途端、ネガティブな思考も浮かんでくる。 俺、八神先生に恩を仇で返すようなことをしようとしているんじゃないだろうか。 きっと先生は龍ちゃんに結婚して幸せな家庭を作ってもらいたいに決まっているよな。それを俺が邪魔してるって知ったらなんて言うだろう。あんなにお世話になって可愛がってもらったのに。 先生だけでなく、おかみさんや獅央君、虎牙君の顔も浮かんでくる。 自分で返事は待つと言ったくせに、半年は長い。そのあいだ、俺は一々こうして浮かんだり沈んだりを繰り返すのだろうか。 そして、俺はずっと不安でたまらないことがあるのだ。 龍ちゃんは誠実な人間だと思う。実際、学生の頃は清廉潔白というイメージだったし、そういう基本的なところはきっと変わっていない。 龍ちゃんはかつて、俺のことを5年も想っていてくれたと言った。 その間、龍ちゃんはあんなに人気があったのに一度も誰とも付き合っていなかった。 ただ黙々と翠の彼氏という役割を演じていた。 やるせない思いを次々と彼女を作ってごまかし続けた俺とは違う。 俺のアメリカでの所業の数々を知ったら、どう感じるだろう。 また軽蔑され、お前とはやっていけそうにないと言われてしまうのではないか? 高校生のあの日。龍ちゃんに俺の彼女たちの扱い方をいさめられ、俺が八つ当たりでキレた日。 じっと俺を見た後「悪かった」と一言だけ言って、向けられた大きな背中。バタンと目の前で閉じるドア。 何度も何度も俺の脳内で再生されてきた映像が蘇る。 あの日から、届かない恋心よりも、好きな人に嫌われたり軽蔑されることの方がずっと辛いと知ったのだ。 また、あんなことになったら。 日が経つごとに、その心配の種が大きく育っていく。

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