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第3話

「犬飼って、肝心な所で弱くなるよな」 馬瀬が手をヒラヒラと動かし、ニヤつきながら言った。そしてチョークを手に取り、名前を書くとそそくさと席に戻った。 俺は拳を握りしめたまま黒板の前で立ち尽くしていた。 黒板にはクラスメイトの氏名が連なるようにして書かれている。筆跡はバラバラ。40人分の名前一つ一つが自己主張している。 しかし不自然に空けられたスペースがあった。そこに俺の名前を書けば、この黒板は完成する。全員の名前が仲良く並ぶことになるのだ。 俺は馬瀬のパーに負けた情け無いグーを解くと、チョークを手に取った。 そして「保健委員 1名」の真下に自分の名前を書いた。 俺は今日から保健委員だ。 週に一回、放課後に保健室へ行き、水質検査や洗剤補充を始めとした雑用を任される、素晴らしく面倒くさい仕事をやることになったのだ。 誰もやりたがらない、ジャンケンで押し付け合うように決められる役割。 馬瀬の言う通り、俺は土壇場になるとすこぶる運が悪くなる。 「まあ、何とかなるだろ。1学期末までの辛抱だな」 ♢♢♢ 「君が水曜日に当番の二年生?」 「はい。三組の犬飼です」 兎月先生はあの自己紹介と同じような顔をしていた。何を考えているのか分からないような無表情。彼の真っ暗な瞳はどこを見ているのか分からない。 きっと俺…いや、生徒に対する興味なんて全く無いのだろうな。 放課後の保健室に利用者はおらず、俺と先生の2人きりだった。冷蔵庫のモーター音がやけに響く。気まずい沈黙が続いた。 「…じゃあ、そこに置いてあるプリントをまとめてホッチキスで留めて欲しい。順番間違えないように気をつけて」 沈黙を破ったのは先生だった。彼はノートパソコンから目を離さずに、俺に向かって言った。 種類別に積まれたプリントと一枚ずつ取り、パチンとホッチキスで留めた。用紙の内容に目を通して、俺はあることに気がついた。 「これ、保健体育のプリントですね。先生が授業やるんですか?」 「……そうだよ。二年生の…奇数クラスを担当することになった」 「じゃあ、俺のクラスに来るんですね」 先生は「ふーん」と言ったきり、そのまま黙った。きっと先生は集中したいのだろう。邪魔をするつもりは全くなかった。だが、俺は話しかけ過ぎたようだ。そう思うと、口を再び開く気にならなかった。 室内にキーボードを叩く音と、ホッチキスの音だけ響く。 「先生、作業終わりました」 実はとっくに終わっていたのだが、先ほどの件もあったので、先生の様子を見計らってから話しかけた。 「……ああ、僕もやっと終わったよ。お疲れ様」 先生は眼鏡を外し、眉間を指で抑えた。そして万歳をするような体制で伸びをした。 どうやら、話しかけるタイミングは完璧だったようだ。 「こんな雑用、退屈だったでしょ」 「そうでもないっすよ。俺、細かい作業好きなんで」 「へえ、意外。まあ、真面目にやってくれて助かったよ」 意外とは何だ。確かに俺の見た目は"繊細さ"とはかけ離れているが。 「じゃあ、俺そろそろ帰ります」 リュックを持ち上げながら言った。 先生は袖を少しめくり、腕時計を見る。 「もうそんな時間か。遅くまでかかってしまったね。手伝ってくれてありがとう」 眼鏡を外した先生は、少し幼く見えた。 普段レンズの下にある瞳は意外と大きく、黒目がちだった。濡れたように光っている。 「失礼しました」 扉を閉め、俺は急ぎ足で廊下を歩いた。 俺にとって兎月先生は"無愛想なメガネせんせー"では無くなっていた。では今は何なのだろう?それはまだ分からない。

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