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第8話
牛尾のリュックとスクールバッグは意外と重い。漬物石が入れられていてもおかしくない。ヤジロベエの様な体勢で、俺は蒸し暑い廊下を歩いていた。定期試験後の校内は静かだ。足音が大袈裟に響く。自分以外の生徒が皆んな消えてしまったような錯覚に陥る。
保健室の扉の前に立つ。両手で牛尾の荷物を持った俺は足を使って開けた。
「失礼します。犬飼です」
廊下と打って変わって涼しい保健室。上靴を脱ぎ、部屋に入る。室内はエアコンが微かな唸りを上げいる以外、物音がしない。
ノートパソコンに向かっていた先生が顔を上げた。その拍子にズレた眼鏡を右手で直す。
「ああ、牛尾君なら大丈夫だよ。今は眠っている。しばらく安静にしていればすぐ良くなる」
「そうですか……」
俺は扉の近くに牛尾の荷物を置いた。体の緊張が緩み、力が抜ける。思わずフウ、と息を吐いた。
「荷物を運んでくれてありがとう。重かっただろう、少し休みなよ」
「はい…そうします……」
先生のデスクに向かい合うように置かれた事務椅子に腰かける。背もたれに体を預けるたびに軋んだ。
先生はノートパソコンをパタンと閉じる。そして眼鏡をカチューシャのように頭に乗せた。
「よく牛尾君の付き添いをしているね。仲良いの?」
「そうです。いつも牛尾がお世話になってます」
「君のことは彼からよく聞いてる」
その言葉を聞いた瞬間、俺は以前牛尾が言ったことを思い出した。
─「先生が『犬飼は普段からあんな感じなの?』って言ったよ」
あれはどういう意味だったのだろう?
また気になってしまう。眠れなくなってしまいそうだ。
確信に近い予感がする。これは俺の悪い特徴の一つだ。何かをうやむやにしたまま放っておけない。
俺は自分の指先を凝視しながら、なるべく"自然な感じ"を意識して尋ねた。
「…前、牛尾と先生は俺について話したらしいっすね。どんな内容だったか気になるな…」
裏返った声の後に続いたのは沈黙。室内は牛尾の寝息とエアコンの上げる唸りのみ響く。
先生が無口なことは今に始まった話じゃないが、この静寂に耐えられない。
部屋は涼しいはずだったが、俺の顔は発熱したように火照っている。額にジワリと汗が滲んだ。"穴があったら入りたい"とはこのことだろう。
「アハハ…変でしたね。すみません…」
笑って誤魔化す。まるでピエロだ。
俺は指先から目を離し、先生の方を横目で見た。
「…先生?」
さっきまで帰りたくてたまらなかったはずなのに。俺は気まずい空気を忘れ、思わず先生に呼びかけた。
先生が左手で顔を覆っていたのだ。よく見ると、耳が真っ赤に染まっている。
「あぁー…。牛尾君、よりにもよって本人に言うなんて……」
口元が覆われているせいで声がこもっていた。
「牛尾君、何て言ってた?」
「え、牛尾が先生に『犬飼は普段からあんな感じなの?』と聞かれたことくらいしか…」
「それだけで十分だよ。……そうか、もう本人に言ってもいいな。これだけ伝わっていたなら…」
先生は手のひらを顔から離した。耳だけじゃなくて頰まで紅潮している。
「気になったんだ。君が本当に普段からあんな感じ…いや、優しいのかね」
「え、俺が」
俺が優しい?そんな自覚は全く無かった。俺は困っている人がいれば助けるが、それくらい普通だろう。そのことを先生に伝えると、彼は深いため息をついた。
「いや…この際ハッキリ言おう。人の為に行動することを『普通』だと言い切れる君は優しい」
なんだかくすぐったい雰囲気。面と向かって褒められるなんて慣れてない。
「体調を崩した友人に率先して付き添ったり、僕の様子伺ってから話しかけたり、つまらない雑用でも丁寧にこなしたり……君は自覚していないだけだ」
彼の顔の赤みはひき、いつも通りの表情で独り言のように呟く。
「俺、そんなことしてたんですか…。よく見てくれてたんですね。なんか嬉しいです」
「よく見なくても、すぐに気付くだろう。だから君の周りには人が多いんだよ。…牛尾君も感謝していたよ」
言い終わると先生はコーヒーカップに口をつけた。すると、彼は「あッチ…」と声を漏らし、舌を出す。どうやら火傷したらしい。
「大丈夫ですか」
「平気だ。…そろそろ帰りなさい。考査後だから疲れているだろう」
当初俺はテスト後の解放感を満喫するつもりだったが、今は何故かすぐ退室する気になれなかった。先生が迷惑じゃなきゃ、ここに居続けたい。そんなワガママが心に芽生えたことに、自分でも驚く。
「そんなことないですよ」
俺の台詞と被るようにグゥと間抜けな音が響いた。胃が震えてたのだ。
咄嗟に腹を抑え、音を止めようとした。しかし自分の意志と無関係に鳴り続ける。
「もう昼を過ぎているからね。当たり前だ。…そうだ」
先生は俺を笑わずに、当たり前のことだと言ってくれた。恥ずかしさで死んでしまいそうな俺にとって、有り難い対応だ。
彼は白衣のポケットから何かを取り出した。
「今はこんなモノしかないけど、無いよりかマシだろう。君にあげるよ」
先生の手の平の上に、爽やかなレモンのイラストが描かれた小さな袋があった。ビタミンが含まれていることをアピールしている感じ。
すぐに飴の包装紙だと気づいた。
「普段はチョコもあるんだけど…さっき食べてしまったんだ。ごめん」
「謝らなくていいですよ。ありがとうございます」
俺は先生から飴を受け取る。少し指先が触れた。冷たい指だった。
「他の生徒には内緒ね」
眠たげな瞳で見つめられる。俺は小さな子供みたいに頷いた。そして手に少しだけ力を込めた。拳の中にある飴玉を確かめるように。
居座れる雰囲気で無くなったので、俺は立ち上がった。
「じゃ行きます。牛尾をよろしくお願いします。」
「分かったよ。…あとで食堂に行きなよ。腹一杯食べるべきだ」
俺は一礼して、部屋を後にした。
夢でも見ていたみたいだ。まさに夢見心地。動く気になれず、俺はしばらく廊下で立ち尽くしていた。
─あの先生が俺を褒めてくれるなんて。
そうしているうちに、閉めた扉の向こうで先生の声が聞こえた。牛尾が起きたのだろうか?何の気なしに聞き耳を立てた。盗み聞きするつもりは無かった。
よく聞こえない。相当小さな声で独り言を呟いているようだ。「まさか僕が」とか「変わった」なんてワードが耳に届くが、なんのことを言っているのかサッパリだ。
諦めて、帰ろうとしたその時だった。急に先生の声がハッキリ聞こえた。
「…犬飼くん」
独り言で、俺の名前を?どうして?
やっぱり夢かもしれない。
こんなこと、現実に起こるわけない。
掌中の飴をもう一度見る。「夢じゃないよ」と俺に伝えるように存在する飴を。
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