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第10話
更衣室はあまり好きになれない。
汗の臭いがいつも充満しているから鼻を抑えたくなる。その上、自分の背より高いロッカーに囲まれているので息がつまる。さっさと着替えてこの部屋から出てしまいたい。
俺がジャージに袖を通していると、着替え終わった馬瀬が話しかけてきた。
「今日の犬飼、起きてる時間の方が少なくないか?授業中ずっと寝てたぞ」
「…そうか?寝てないと思う」
「自覚なしかよ…。まあ、次は体育だ。寝る暇なんてないから心配いらないな」
俺の背後で片足立ちの牛尾がよろけていた。ズボンを履いている途中のようだ。
「今日からバスケだっけ?2人とも得意だったよね。僕なんて突き指確定だよ」
「ちゃんとボールを見れば大丈夫さ。試合中にぼんやりしなきゃ平気だろ」
馬瀬が脱いだ服を畳みながら言った。
準備運動が終わった後、すぐに練習試合が始まった。生徒の実力を見て、戦力が均等なチーム分けをするためだろう。
くじ引きの結果、牛尾と俺は同じチームだったが、馬瀬だけ別れてしまった。しかも敵チームときた。
ストレッチをしていると、背後にいた馬瀬が「お前に勝てる気しないよ」と眉を寄せて言った。
「馬瀬だってもとバスケ部だろ。俺なんて授業でしかやったことないぞ」
「バスケ部って…小学生の頃の話だろ。本格的にやったことない犬飼に勝てないなんてな。お前、強すぎるよ」
「犬飼はゴール滅多に外さないからね。困ったらパス回してもいい?」
隣にいた牛尾が尋ねる。
俺はただ「どうぞ」と返すことしか出来なかった。今日のコンディションでチームメイトの期待に添えられる自信は無かったのだ。
ホイッスルの音と同時に、ボールが跳ねる音と、足音が体育館中に響き渡る。
ボールはコートの中心からなかなか動かない。俺が手を伸ばしても、ボーズはすり抜けていく。いつもより力が出なかった。当たり前だ。
試合中だというのに、生あくびが止まらないのだから。
試合開始からもう3分も経っているのに、ボールは一度もゴールを通っていない。適当に組んだチームの実力が、奇跡的に同等だったようだ。
高ぶらない気分と、上昇する体温。
硬直した試合を動かしたのは、意外にも牛尾だった。馬瀬が遠くにいたチームメイトにパスしたボールが、たまたま牛尾の近くをすり抜けようとしたのだ。
「しっかりボールを見ろ」という馬瀬のアドバイスを律儀に守っていた牛尾はすぐに反応し、ボールを掴めた。
「犬飼!」
苦手なドリブルに果敢に挑んだ牛尾は、敵に追いつかれそうになった瞬間に俺を頼ってくれた。
しかし試合中にぼんやりしていた俺は、飛んでくるボールに気づくのに遅れた。
─ヤバい。
コースラインを超えそうになったボールを俺は咄嗟に取りに行った。取ったものの、運べそうにないと判断した俺は他のチームメイトにパスをした。無事、託した。ドッと安心感が溢れる。牛尾が繋いでくれたものを無駄にしたくなかった。
反射的に動かしたので、身体が勢い余ってコート外へ飛び出した。身体が床に引っ張られるようにして傾く。尻から着地するつもりだったが、咄嗟に手を出してしまった。防衛反応だ。
着地の瞬間、右手に大きな負荷が掛かるのを感じた。
俺がすっ転んでる間でも試合は続く。
急いで立ち上がり、ゴール下に向かって走り出した。
「牛尾のおかげだよ」
チーム全員が口を合わせた。
「え、そうかな?ゴールを決めたのは犬飼じゃん」
「あの時、牛尾が試合を動かさなかったら勝てなかった」「そうだぞ。謙遜すんなよ」
皆、汗を額に浮かべながら興奮気味に言う。
数人に囲まれた牛尾は頰を真っ赤にしながら俯いた。顔に笑顔を浮かべながら。
そんな中、俺は黙ってダラダラと冷や汗をかいていた。牛尾に礼を言いたいが、口が開かない。
異変に気付いた牛尾は人混みから離れ、俺に近付いてきた。
「犬飼、顔色悪いよ。大丈夫?」
「……ちょっとヤバいかも」
試合中はドーパミンが出ていたせいで気付かなかったが、手首を捻挫したようだった。
きっと、さっきの転倒だろう。この痛みはちょっとどころでは無かった。
馬瀬がボールをつきながら「保健室行けよ。早く手当すれば早く治る」と言った。当たり前のことでも、馬瀬が発言すると大げさに感じるのは何故だろう。しかし今はそれどころではない。俺はつい、口を滑らした。
「えっ、保健室?」
俺の言葉に牛尾は首を傾げる。
「そこしか行くところないでしょ。先生には言っとくから」
体育館の喧騒とは打って変わって、外は静かだった。
俺は誰もいない廊下を歩いた。教室からはわずかに教師の話し声が聞こえるだけ。ここに響くのは俺の足音だけだ。
保健室への道がいつもより遠く感じる。
痛む手を抑えながら、俺はドアをノックした。
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