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第13話
俺とは対照的に、日常生活は全く変化が無い。平和そのものだった。
先生も、昨日と同じような様子で仕事をしていた。窓際に置かれた事務机の前が定位置だ。
彼は部屋に入って来た俺に気づくと、顔を上げた。そしてズレた眼鏡を指先で直す。いつも通り。
「あれ、君が来るのは放課後だったはずだけど。まだ昼休みだよ」
「昨日借りた氷嚢を返しに来たんです」
たったこれだけの会話でも、手に汗が滲む。声色や視線を向ける方向に気を遣いすぎてしまう。自分の挙動が不自然にならないように自然に振る舞おうとするが、無駄な努力に終わった。
先生が眉間にシワを寄せながら立ち上がる。
「何かあったの?」
「いえ…別に普通ですよ」
「…まあいいや、それより怪我はどう?よかったら見せてよ」
「あっ、はい」
断る理由もなかったので、腕を差し出す。テーピングで固定された手首を見ると、昨晩のことを思い出してしまうので思わず目をそらす。
しかしそこを先生が触れるものだから、俺は見ずにはいられなかった。
俺は目だけを動かして先生の顔を盗み見た。下を向いているせいか、いつもより長く感じる彼のまつ毛が目を惹く。なんだか距離が近い気がする。昨日まではそんなこと…いや。もう自分の感覚なんて信じられなかった。人を見る目なんて一晩ですっかり変わってしまうことを知ってしまったからだ。
「もう大丈夫そうだ。でも油断してはいけないな。しばらく安静にしてなよ」
ぼんやりしていたせいで返事をするタイミングが遅れた。慌てて口を開いたが、俺の返事が先生の耳に届くことはなかった。
何故なら、俺が口を開けた瞬間に、扉が乱暴に開け放たれたからだ。
「あれ、他の奴いるじゃん。まあいいや」
廊下から生徒が2人やって来た。でかい奴と小さい奴。胸元のバッジの色から、三年生だと分かる。
顔には薄笑いを浮かべており、ズボンを腰までずり下げ、上靴の踵を潰していた。一目で軽薄そうな奴らだと感じた。
「おれらダルいから少し休むわ。授業休んでもいいだろ?センセ?」
先生の返事を待たずに、奴らはベッドの上に靴を履いたまま飛び乗った。スプリングが派手に軋む。
どこからどう見ても、体調が悪くて保健室を利用した生徒には見えなかった。ただのサボりたくて昼休みが終わる五分前にやって来たのだろう。
この学校に不良の真似事をしている上級生がいると俺たちの間で噂になっていたが、それは本当だったようだ。
教師の前では模範的な生徒のふりをし、特定の人物…つまり見下している相手には横暴な態度をとる、嫌な奴らが本当に存在していた。
少し前まで、この学校には完璧に模範生徒に擬態していた本物の不良がいたらしいが、こいつらは半端者だろう。大した悪さをする気は無いが、憂さ晴らしはしたい、そんなタイプの人間。
「もっとクーラーの風強めろよ。おれらビョーニンなんだからさ。気遣ってくれたっていいだろ」
「その通りだな。…あと、そこのお前。早く帰れよ?授業始まっちまうぞ」
でかい方の奴が俺を指差しながら言った。口元を歪ませている。笑っているつもりなのだろうか。そして「担任に連絡しといてくんね?おれら風邪引いたってさ」と続けた。
小さい方の奴が、ガムをクチャクチャ音を鳴らして噛み始めた。唾液混じりの声で言う。
「センセー頼むわ。お前なんて涼しい部屋でパソコン弄ってるだけだろ?おれは暑い部屋で頑張ってんだよ。少しお休みするけだって、おい」
「…クソが、何いつまで黙ってんだよ、メガネ野郎。早く担任に連絡しろって」
でかい方の奴が舌打ちをしながら怒鳴った。
それを聞いた瞬間に、俺は思わず足を動かしていた。
ベッドで笑っていた2人が急に近づいて来た俺を見て、動きをピタリと止めた。目だけでこちらを睨むように見つめる。
「何だよ…お前二年か?なんか用でもあるのかよ。無かったら失せろ」
「失せるのはそっちだろ。ここはサボるための場所じゃない」
俺の台詞に反応したのか、2人同時に立ち上がった。目つきがさらに鋭くなる。
「生意気なこと言ってんじゃねぇぞ…。やんのかよ」
でかい方の奴が俺の胸ぐらを掴んだ。少し足元がグラつく。小さい方の奴は「やっちまえよ」と囃し立てているだけで動かない。
「やればいいじゃねえか」
俺はそいつらから目を逸らさずに言った。
ちょっとした拍子で爆発しそうな雰囲気の中、場違いな音が鳴り響いた。昼休みの終わりを告げるチャイムだ。
沈黙を貫いていた先生が口を開いた。
「そのへんで辞めなさい。君たちはサボれないと思うよ。君らの担任の先生は僕の言うことをいまいち信用してくれないからな。僕に何度も嘘をつかせた代償だね。…それにサボりは成績に響く」
「チッ、分かったよ。帰ればいいんだろ」
先生の言葉に意外なほど、2人はあっさりと引き下がった。模範生徒のフリをしているつもりの彼らにとって、学校の成績は死活問題なのだろう。
一瞬にして保健室は再び静寂な雰囲気に包まれた。
先生は眼鏡を掛けなおしながら、椅子に座った。
「犬飼くん、喧嘩は良くないよ。何の特にもならない」
「それは分かってました。でも俺は耐えられなかった。…何で先生はあんなに馬鹿にされても怒らなかったんですか?」
「面倒くさいからだよ。そもそも彼等には最初から期待していないし」
「それよりも、何故君は耐えられなかったの?君が馬鹿にされたわけじゃないだろう」
「それは…先生があいつらに貶されたことが許せませんでした。それだけです」
「優しいんだね。僕のために怒ってくれるなんて」
「当たり前ですよ。先生は大切な人ですから」
俺は怒りに身を任せ、勢いに乗って会話をしていた。そのせいだろうか。何だか今、とんでもないことを口にした気がする。
沈黙が室内を包む。時間が止まったみたいに。
先生がピクリとも動かなかった。俺も動けなかった。部屋の一部にでもなったみたいだ。
「犬飼くん…」
先生の囁き声で我に帰った。
恐る恐る、眼球だけで先生を見た。彼はいつもと変わらない様子で、こちらを見つめている。
「授業遅れるので、帰ります」
俺は先生が口を開き、何かを言おうとしてるのを分かっていたのに遮った。
先生の返事を待たずに、扉を開けた。振り返らずに教室への道を急いだ。まるで逃げ出すように。
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