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第2話
その後、大虎になった平野を虹口 の自宅まで送り、倉橋も帰路につくことにした。倉橋の住まいはこの地区の南――外灘 のすぐ近くだった。
虹口は上海租界随一の日本人居住区だ。日本の諸施設や店が集中し、日本語で生活できる。
しかし、治安は決して良くない。近年、抗日という共通目的のもと手を組んだ国民党と中共、及びそのシンパによるテロが頻発しており、爆破や襲撃による建物の損壊、死傷者が相次いでいた。
日本人は日毎に、中国人への不信感と恐怖心を深め、中には強い憎しみを抱く者もいた。中国人は中国人で、自国を侵略した日本人を快く思っていない。啀 み合う人々が随分と増えてしまったものだ。
そんな中、倉橋は中国人に否定的な感情を持っていなかった。むしろ、好意的だった。だからこそ、自分は……。
――敬之、醒来(起きて)。
鈴を転がすような声が、ふと頭の中に響く。
――敬之、我们来吃早餐吧(朝ご飯食べようよ)。
……あぁ、美玲 。
愛しさと陰鬱とした思いが綯交ぜになって、胸底から芽吹いてきた。街灯の少ない昏い夜道に視線を落とす。
恋人の美玲がいなくなって、一ヶ月が経った。
元々は仏国租界の富豪宅で働く女中だった。嫉妬深い奥方から因縁をつけられて家を追い出され、路頭に迷っていた彼女を見かけ、倉橋は声をかけたのだ。
「賃金は渡せないが、住む場所と食事なら提供できる」
下心がなかったとは言えない。一目惚れだった。しかし、下卑たことは考えてなかった。彼女はそれを感じ取り、倉橋の提案に乗ってくれた。
一緒に暮らし始めた彼女と男女の関係になるまで、そう時間はかからなかった。昨年の春のことだった。
美玲が家を出て行ったのは、些細な言い合いが大喧嘩に高じたためだ。
倉橋は珍しく、美玲を怒鳴った。感情が昂ぶるあまり、剥き出しの思いを声色や声量に詰め込んでしまった。
何に対して怒鳴ったのか、今となっては覚えていない。だが、美玲を深く傷つけたのは確かだった。翌日、倉橋が帰宅すると、彼女の姿はなかった。近所や心当たりのある場所を懸命に探し回ったが、彼女を見つけることはできないまま日数が経ち、夏の盛りを迎えてしまった。
……あぁ、美玲。君に会いたい。
もう怒らないから、帰ってきてほしい。沢山謝るから、また笑顔を見せてほしい。
美玲、君が恋しい……。
腰に硬い物が押しつけられたのは、その時だった。
突然のことに心臓が飛び跳ね、足が止まり全身が硬直した。カチャリと、あまりにも不穏な音が人気のない路地に響く。より一層竦んだ。
背広、シャツ、皮膚、そして骨にまで伝わるこの無機質で重い感触は……、間違いない。銃口だ。
「振り向くな」
雪の結晶を彷彿とさせる、冷たく澄んだ声が背中に刺さる。年若い男の声で、蘇州語だった。
「そのまま進め。自宅まで行け」
銃で腰を小突かれ、倉橋はその声に従う。恐怖で足が思うように動かない。錆びたブリキの兵隊のような、ぎこちない歩行になってしまう。
自宅まで数十メートルのところだった。物思いに耽っていたとは言え、背後からの気配に気づくべきだった。明らかな失態だ。
……一体、何者だ?
憲兵でないのは確かだ。奴らであれば複数人で、しかも日本語で真っ向から倉橋を囲む。国民党は除外していいだろう。彼らとは接点がない。身内 でもないはずだ。
ただの物盗りであれば、どれだけ良い事か。しかし、その線も薄い気がする。見当がつかないまま、自宅へと着いた。
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