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第3話
扉を開け、暗い部屋に入る。当然だが、電気をつけることは許されなかった。
しかし扉が閉まると、腰にあったおぞましい感触は離れ、「楽にして、こちらを向いてくれて構わない」と物静かな声が聞こえた。倉橋は耳を疑った。
罠ではないだろうか。気を抜いて振り向けば、今度は腹に銃を突きつけられるのでは。警戒心を解けずにいると、くすくすと鼓膜を擽られるような笑い声がし、ぎょっとする。
「本当に大丈夫だから。弾もないし、刃物も持ってない」
「……本当か?」
硬い声で訊ねる。蘇州語は美玲との生活で培ってきた。彼女の先祖は、太平天国による反乱で故郷の蘇州を追われ、租界に移り住んだ。故郷を懐かしみ、憐れみ、家族の魂が還る場所とした彼らは、上海でも蘇州語を使い続けていた。
「僕を信じて」
雪の結晶のようだった声に体温が流れ込んでいき、随分と人間臭くなっていた。安心してしまいそうなほどに、温かく柔和だった。……もし、その言葉が嘘ならば、その時はその時だ。 倉橋は意を決し、恐々と背後に顔を向けた。
驚愕のあまり、身体も呼吸も思考も、何もかもが止まる。
眼鏡越しに見たのは、あの踊り子だった。
先刻、大世界のダンスホールで見惚れた少年が、歳相応の微笑みを浮かべ、倉橋を見上げていた。
驚かないわけがない。そして、混乱せずにはいられなかった。シャツの下にどっとかいた汗は、暑さと動揺によるもの。今も汗が一粒、額から顔の輪郭を伝った。
「……君は」
「驚かせてごめん」
少年は苦笑しながら、拳銃の弾倉を見せてくる。彼の言う通り、装弾されていなかった。ズボンのポケットにさっとしまい、再び見上げられる。
「アンタへの敵意や殺意はないから、安心して。それよりも助かった、感謝する」
「……どういうことだ」
口を開く度に、唇が戦慄いているのに気づかされる。倉橋は、困惑していた。銃を突きつけ脅してきたのが踊り子の彼で、何故か感謝された。冷静に状況を判断するには、何もかもが欠けている。
「そろそろこの辺りを、憲兵隊と警察が駆けずり回るだろう」
そう言って少年は窓際へと向かい、閉めきったカーテンを少し開け、外の様子を窺う。「……思ったよりも早いな。悪い、隠れられる場所はあるか?」
「追われているのか?」
「あぁ」
慌しい足音の数々が、遠くからではあるが確かに聞こえてきた。倉橋はさらに困惑したが、窓から離れ、こちらに戻ってきた少年が纏う不穏な臭いに気づくと、今度は全身が勢いよく粟立ち、心臓がうねるように鼓動した。
硝煙の残り香と、血の臭いだった。
「……人を殺したのか」
「鋭いな、その通りだ」
なんて事はないと言いたげな、軽快な口調だった。少年は、深い充足感と達成感に満ちた表情で微笑む。
「あの男を、撃った」
「あの男、というのは」
「鋭いのか鈍いのか、分からない人だな」
弾むような笑い声が、部屋に篭るいきれた空気を揺らす。「あそこで僕を買ったあの男さ。日本人の間では有名なのだろう?」
眩暈を起こし、倒れそうになるのを堪え、倉橋は眉間に皺を寄せ、少年を凝視した。……本当なのか。この共同租界の治安を守る組織――憲兵隊のトップである高松少将を。まさか、そんな……。
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