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第5話

小一時間が経過し、近辺に憲兵の気配はなかった。もう大丈夫だろうと、倉橋は寝台の下に潜り込み、木床を取り外した。六十センチ四方に切られているが、その境目はまったく分からない。一体誰が何を用いて切ったのか。一切不明だが、お陰でその下にある隠し部屋の存在を、憲兵に知られることはなかった。 そこからもぞもぞと姿を見せた少年は、先刻とは打って変わった無邪気な笑みで、「谢谢」と礼を言ってきた。そのまま寝台に腰をおろした。 「狭い部屋だったが、居心地は良かった。助かったよ」 のんびりと脚を組み、丸め続けていた背中をぐっと伸ばしながら気楽に言う彼に対し、倉橋はひどく気疲れし、身体もふらふらだった。近くにあった鏡台の椅子を持ってきて、彼と向かい合って座した。大きな溜息が吹き出る。 「……何故、知っている」 少年を見据えて訊ねれば、そよ風のような笑い声が返ってくる。 「そりゃあ、教えてもらったから」 「誰に?」 「雇い主」 答えになっているが、なっていない。倉橋の険しい表情を見て、少年は苦笑した。 「悪いね、僕も雇い主についてはよく知らない。銃の撃ち方と人の急所を手短に教えてくれただけだから」 「君は中共のシンパではないのか?」 少年は緩やかにかぶりを振った。ただの踊り子で、男娼だ。抗日運動はよく知らない、とのことだ。 「けど、雇い主も僕もあの男を消したかった。理由は違うけど、その部分が一致した。だから喜んでこの仕事を引き受けた」 「……理由?」 少年は伏し目がちに微笑んだ。 「家族の仇だ」 彼の声に滲む深い憎しみの色に、倉橋の背筋は震えた。何があったのか、訊ねようかどうか逡巡していると、彼が先に答えてくれた。 「あの男に個人的な理由で殺されたんだ」 「家族をか?」 「そう。だが、それを知るのは一握りの人間だけ。あの男は、自身の罪を上手く隠蔽できたと思ったまま死んでいった。幸せな奴だ」 倉橋は絶句した。それが事実だとすれば、決して許されることではなかった。上海憲兵隊長が殺人? 日本国軍の将校が? しかも、それを隠蔽した? ……あり得ない。そんなこと、あってはならなかった。 「それが嘘だと思うなら、明日以降、あらゆる新聞に目を通せばいい。必ず、どこかが記事にするから」 考えていることが顔に出ていたようだ。少年ははっきりと断定した。ぬるりと脚を組み替え、倉橋を見据える。 「他に訊きたいことは? 答えられる範囲で答える」 「……予め、この家に逃げ込むと決めていた、あるいは指示されたのか?」 倉橋の質問に、少年は頷く。 「この家に隠し部屋があると知っていたんだな?」 「あぁ」 そんな気はしていたが、危機感が膨れあがった。あの部屋は、諜報活動のために作られた。幸い何も置いていなかったが、その存在を関係者以外に知られていたのが、恐ろしかった。少年の雇い主は恐らく、どこかの国の諜報員だろう。 「悪いけど、あの部屋は潰した方がいいよ」 言われなくとも、そうするつもりだ。 「他には?」 「いや、もういい」 倉橋は首を横に振った。知り過ぎると、こちらの首が絞まるだけだ。少年は微笑み、寝台から腰をあげた。

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