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甘酒と桃の花
仕事が早めに終わって、家に帰る前にいつものスーパーに立ち寄る。
俺達には直接関係の無い日ではあるんだけど、それでも事あるごとにイベントを開催している今日のスーパーは、ピンクの飾り付けで一杯だ。
関係ないとはいえ、イベント限定の商品なんてのがいっぱいあって、その微笑ましくなる華やかさに思わずテナントとして入っているケーキ屋さんのショーケースの前で立ち止まってしまう。
今日の為だけの菱形のケーキ。
イチゴと白桃とピスタチオのムースを層にして、底にはそのお店の自慢の一つであるクッキーを砕いて、たっぷりと敷いてあるらしい。
きっと充彦さんが作るケーキの方が美味しいだろうとは思うんだけど...なんだかその見慣れない菱形がとても可愛い。
上に乗せられたマジパンのお内裏様とお雛様も独特の愛嬌があって、柄にもなくそのケーキを見ながらニマニマとしてしまった。
慎吾さん、イチゴのムース好きなんだよな......
やっぱり真っ先に考えるのは愛しい人の事。
箱を差し出した瞬間、どんな風に喜んでくれるだろう。
中を見て、この少し間抜けで愛嬌たっぷりのお雛様を見たらどんな顔で微笑むだろう。
気づけば俺は、肩に掛けたレザーのショルダーバッグから財布を出していた。
保冷剤もちゃんと入れてもらい、それをカートに乗せる。
あとは晩御飯の買い物。
本当ならちらし寿司だとか蛤のお吸い物なんて作るんだろうな...ま、俺も慎吾さんも女の子じゃないから関係ない。
しかし、関係ないなんて言ってはみるものの、食品売り場には早春を彩る瑞々しい野菜がずらりと並んでいた。
早掘りの筍だとか、こごみにぜんまいにふきのとうなんて山菜、それにまだ少し季節には早いはずのエンドウ豆。
和食を作るのが得意な勇輝さんならあれもこれも器用に調理してしまうんだろうけど、残念ながら俺はそちらにはどうにも疎い。
せめてこれくらいは使おうかと筍とエンドウ豆をカゴに入れる。
筍と鶏肉のトマトソースパスタにエンドウ豆のポタージュなら、少しは春らしい気分になるだろうか。
せっかくの初物だから丁寧に下拵えをしようと米糠も併せてカゴへと入れると、俺は会計を済ませて改めて家へと急いだ。
エントランスの明るい照明とピカピカに磨かれた床にはどうもまだ慣れない。
俺のような半人前が、充彦さんや勇輝さんと同じマンションに暮らしているなんて分不相応だとわかっているけれど、それでもこれまでに比べて格段に広いキッチンのお陰で外食の回数が減ったのだから、上がった家賃の分は食費でカバーできているかもしれない。
エレベーターを8階で降り、奥から2番目のドアに鍵を差し込んだ。
ドアを大きく開いた途端、奥からフワリと知らない甘い香りが漂ってくる。
ん?
これって何の香りだ?
「慎吾さん、ただいま~」
ショートブーツを脱ぎ、あまり物音のしないリビングへと近づいていく。
「ただいま」
廊下と部屋を隔てるドアを開くと、甘い香りはより一層強くなった。
その正体もわからないまま、愛しい人の姿を探す。
香りの正体は、どうやらコンロに置いてある鍋らしい。
ダイニングテーブルの上には珍しく花が飾ってある。
いや...花というよりは...枝?
ポツポツと付いた蕾と、綻んだ花がいくつか。
淡いピンクのその花びらは、ついさっきスーパーの中で散々見てきた物と同じだ。
その時、ゴソゴソという音と共に寝室の扉が開いた。
「おか~えり~」
今探そうと思っていた姿が、ほんのり頬を赤らめてそこに立っていた。
少し寝惚けているのだろうか。
いつも以上にその声は甘えて聞こえる。
持っていた買い物袋とケーキの箱をテーブルに置くと、俺は慎吾さんの方に向かった。
「寝てたんですか? どこか調子悪い? ちょっと顔も赤いみたいだし......」
「ん~? ちゃうよ~」
手の届く所まで近づいた俺にフニャンと柔らかく微笑むと、慎吾さんがユラ~っと腕を伸ばしてきた。
指先が俺の首に触れると同時に、まるで飛び込むように抱きついてくる。
あ、この匂い......
「慎吾さん、もしかして酔ってます?」
「んふふぅ、ちょっとだけ~。ほんまやでぇ。ちょっとなん、ちょびーっとだけなんやで?」
俺の目をじっと見ながら小首を傾げる。
あんまり機嫌が良さそうで、悪酔いはしていない事に安心しつつ、敢えて少しだけ怒ってるフリをしてみた。
「俺がいない場所で、勝手にお酒飲まないって約束しましたよね?」
「ごめ~んな~? あんな? 今日ってぇ、雛祭りやん? んでんで、お花屋さんで桃の枝買うてきたから、勇輝くんのとこにもな? お裾分けしてきてん。そしたらぁ、アレもうたん」
慎吾さんの動いた視線の先にはコンロの上の鍋。
そこでようやくこの部屋に満ちている甘い香りの正体に気づいた。
「ああ、そうか...甘酒だ......」
「せいか~い、ピンポンピンポ~ン。白酒やと俺が飲まれへんやろうからってぇ、酒粕でいーっぱい甘酒作ってくれてんて。んでアレお裾分けしてもうたからね、ちょびーっと味見してみたらぁ、なんかちょびーっと眠うなってもうてん。あ、航生くん、おかえり~」
「はい、ただいま~...って、それさっきちゃんと言ってもらいましたよ」
いくら酒に弱いとはいえ、たかだか甘酒をほんの少し味見したくらいで酔ったりはしないだろう。
「甘酒、そうとう美味しかったんですね?」
「せやね~ん。メッチャ美味しかっていっぱい飲んでもうた...あっ......」
「まったくぅ...ちゃんと俺の分、残ってますか?」
「全部は飲んでへんわ! 飲む? 航生くんも飲む? あっためたろか?」
余程美味しかったみたいで、早く俺にも飲ませたいらしい。
まあ、美味しいとか綺麗だとか、そんな感情が共有できる幸せを味わいたい気持ちはわかる。
俺だって、慎吾さんと一緒にいるからそれが幸せだと知ることができた。
「あっためたるけどな、気ぃつけなあかんねんでぇ」
「ん? 何か気を付けないとダメな事が?」
「甘酒なぁ、あっちぃねん。いっぱいフーフーしてもなかなか冷めへんからなぁ、ベロ火傷すんねんで」
「ありゃ...火傷したんですね?」
「した!」
何に胸を張っているのか。
火傷ってえらいのか?
「大丈夫ですか? 痛い? ちょっとベーしてみてください」
「ちょびーっと痛いねん」
口を開けると、素直にベーッと舌を伸ばす。
なるほど、確かに舌の横が赤くなって、表面のザラザラが腫れているように見えた。
ちょっとした悪戯心から、そっと顔を寄せその赤い所をペロリと舐める。
俺の首に回されていた腕にキュッと力が入った。
もう一度ペロリと舐め、そこをチュッと吸う。
「アカンてぇ...痛いんやでぇ?」
アカンだの痛いだの言うくせに、伸ばしたままの舌を見せつけてくる。
またそこに吸い付いてやれば、切なげに眉根を寄せて俺の肩口を強く掴んできた。
「火傷の消毒してるだけですよ?」
「嘘や~ん。いじめて喜んでるやろぉ」
「心外です。俺はいつだって慎吾さんの嫌がる事はしないでしょ? 慎吾さんも消毒してほしいのかなぁと思ったのにな~」
しれっと顔を離そうとすると、慎吾さんは明らかにムッとする。
「航生くん、めっちゃいけずやな」
「そうですか?」
「んっ。消毒...いっぱいしてぇや」
「ベロだけですか? あ、そうか...火傷してるのベロだけですもんね」
俺がニッと笑って見せると、その顔を隠すように慎吾さんはポフッと俺の胸に額を押し付けてきた。
「火傷したんはベロやけどぉ...あっちこっち熱うなってきて...火傷しそうやねん」
「あっちこっち? そりゃあ大変だ。じゃあ、熱い所全部消毒しましょうね」
せっかく出てきたばかりだと言うのに、俺は慎吾さんの背中を押して寝室へと戻った。
ケーキを食べながら桃の花言葉を聞き、今度は俺の顔が火傷しそうなほどに赤くなった。
桃の花言葉:私はあなたのとりこ
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