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第1―2話

磯一遊の中は冷房が効いていた。 芹沢は玄関でライダースブーツを脱いでいるだけで汗が引いていくのを感じた。 玄関を上がるとロビーになっており、ふんだんに生けられた季節の花が美しい。 中には季節に関係の無い花もあるが、フラワーアレンジメントを最上に美しく完成させる為に、一流の花屋で調達したのだろう。 民宿と言っても安っぽさや、もっと言えば親しみやすさは微塵も感じられない。 ロビーに並ぶソファやテーブル、カーペットに至るまで全てイタリア製だ。 この民宿を西園寺誠人がアトリエのひとつと決めてからは、一階は西園寺がオーダーして価値ある物は残し、その他は徹底的に改装を施した。 但し、この民宿を愛した祖父に敬意を表して外観は修復程度…と見せかけて完璧に改築済みだ。 二階と三階の客間も、やはり価値ある物を残し、今では当たり前の和洋折衷に完璧にリフォームされている。 西園寺の祖父は南伊豆に不動産を数多く持っている町の名士で、東京の大学に進学した4年間以外は生涯を南伊豆で過ごしている。 西園寺の父は東京の大学に進学して、そのまま東京で就職した。 西園寺も東京生まれの東京育ちだ。 西園寺の父には姉がいて、父とは違い東京の大学を卒業すると南伊豆に戻り、祖父の秘書となり、結婚もせず、祖父の仕事を支え続けた。 そして西園寺が30才になった時、80代になった西園寺の祖父は一部の不動産の生前贈与を行った。 西園寺はその時には自分の仕事で大成功を収めていたので、生前贈与と言われてもピンと来なかった。 そんな西園寺に祖父はニコニコ笑って 「まこっちゃんに役立つような不動産は無いかな?」 と言った。 不動産…? うーんと考える西園寺に、父の姉、西園寺から見れば叔母の百合子が助け舟を出した。 「まこっちゃんのアトリエにしてみるのはどうかしら? もちろんアトリエじゃくて別荘にして、英気を養っても良いと思うの。 そういうのってまこっちゃんの芸術の役に立たないかしら?」 西園寺は叔母の話を聞いて、それもそうだなと思った。 アトリエは東京にあるがビルの中だ。 大自然の中で時間を気にせず創作する…まだ自分も知らない何かが降りてくるがしれない… 「まこっちゃん、良い顔しとる」 祖父が嬉しそうに笑った。 結局、西園寺誠人は三件の不動産を相続した。 三件とも外観も立地も趣きが違っていて楽しめそうだ。 西園寺は三件全てを改装してアトリエを作った。 それ以外は手つかずでも十分西園寺の趣味に合っていた。 そして二年前、西園寺は何を思ったか、南伊豆で海の家をやると言い出した。 場所は叔母の百合子がオーナーの、一流リゾートホテルの国道を挟んだ真ん前だ。 そこで西園寺は百合子に相談した。 海の家のアルバイトを寝泊りさせる民宿や旅館がないかと。 百合子はにっこり笑った。 「あるわよ。 この浜から歩いて3分、温泉付き」 「それいーじゃん!借りる。 不動産屋教えて!」 「直接話した方が早いわ」 百合子はスマホを取り出すと軽やかにタップする。 そして二言三言話すと西園寺にスマホを渡した。 ディスプレイには祖父の名が表示されていた。 「おじいさん、誠人です」 『まこっちゃん…磯一遊を貰ってくれるのか…?』 「磯一遊という名の宿なんですか?」 『そうじゃよ。 楽しかったなあ。 わしも死んだばあさんも海が好きで…。 わしの父親、まこっちゃんから見れば曾祖父が、当時最高の宮大工を雇い、最高の木材やら石の材料を使って趣味で建てたんだ。 親父ははなから民宿を経営する気は無かったが、『民宿を持っている』と親父が言うと、大抵の人間は驚いた。 『西園寺の御前がなぜ民宿を!?』とな。 それが楽しかったから建てたんだと言っていたよ。 結局は民宿とは名ばかりで、客は取らず、夏の間の海の別荘代わりに使っていた。 わしもそうだ。 料理人や世話人を揃えて、友達を呼んで家族ぐるみで海で遊んで、夜は海鮮料理に舌鼓を打って、露天風呂に入って…わしもばあさんもあの民宿が大好きだった』 「…うん」 『まこっちゃんが相続してくれた三件の物件に比べると、まこっちゃんの役には立ちそうも無いし、別荘として建てられた物でも無い。 それがなあ、まこっちゃんから貰ってくれると言い出してくれるなんて…』 「おじいさん、それじゃあ…」 『磯一遊は今日からまこっちゃんの物だ。 分からないことがあれば百合子に聞きなさい』 「おじいさん、ありがとうございます」 西園寺は立ち上がり、スマホの向こうに深々と頭を下げた。

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