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第6話
「ピアノ…」
秀一は思わず呟く。
このカフェに入った瞬間に全身を支配した音の出所は、あれのはずだ。
そして、それを奏でていたのは。
「ピアノお好きなんですか?」
「あっ…いえ俺は…あの、さっきピアノ弾いてたのって、店員さんですよね?」
「ああ、はい。昔少しやってたので。」
「少し…」
少しやっていた、のレベルなのだろうか。
秀一は音楽の授業で触ったリコーダーしか経験がない。そんな人間を、あんな一瞬で虜にするような音色を奏でるこの人が、昔少しやっていたのレベルなのだろうかと疑問に思ったが、それを否定するほどの音楽の知識が秀一にあるはずもなく、鵜呑みにするしかなかった。
「あ、の…」
もう一度、聴きたいです。
あんな一瞬ではなく、ちゃんと。
と、お願いしようとなけなしの勇気を振り絞ったその時、カランカランと入り口のドアベルが軽快な音を立てた。
「いらっしゃいませ。」
当然、店員の男性はその場を立ち、秀一に会釈を一つしてカウンターに戻っていく。ぽっかりと空いてしまった隣の席が寂しい。
秀一は残ったカフェオレを少し見つめて一気に飲み干し、伝票を手に店員を追いかけた。
「お帰りですか?」
グラスに水を注ぎながら、店員はにこやかに声をかけてくれる。
秀一はコクコクと頷いて伝票を差し出し、落としてしまったが故に新調したばかりの財布を取り出した。
「650円になります。」
給料日直後の潤いたっぷりの財布から千円札が一枚旅立って行き、数枚の硬貨が返ってくる。アンティーク調の金属トレイに乗せられたそれらは、僅かな時間触れた店員の体温が残っていたのか思ったよりも温かい。
その少し温かい硬貨を握りしめて、秀一は再びなけなしの勇気を振り絞った。
「あ、あのっ…また来てもいいですか!」
一瞬の間。
立派なオーディオから流れる豊かなヴァイオリンの音色が、時の流れが止まっていないことを教えてくれる。
店員はきょとんとした顔をして、すぐにふわりと微笑んだ。
「もちろん、いつでもいらしてください。次は幸運なお話が聞けるのを楽しみにしていますね。」
パァっと世界が明るくなって、秀一は足取り軽くカフェを後にした。ふわりふわり、まるで羽でも生えたように。
ふと思い立って店を振り返り、その看板を見上げた。
「と、…とら…め?読めねーな…」
次来た時は、何か明るい話をして、今度こそピアノを強請ってみよう。
秀一は緩む口元を手で覆って隠し、軽快な足取りで歩き出した。
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