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第11話
上品な薄いイエローの春らしいワンピースを身に纏って綺麗に髪を整えているマダムは、秀一には目を向けず店員にニコリと微笑んだ。
「いいじゃないの、私だって久しぶりに貴方のピアノ聴きたいわ。マスターが隠居してから一度も弾いてくれないんだもの。」
「そりゃ一人で店やってたら弾く暇もないですよ。」
「わかってるわよ。だから普段は弾いてなんて言わないのよ。でもこんなに熱心にお願いしてくれる人がいるんだもの、いいじゃない小品1曲くらい。私カンパネラがいいわ。」
「笠井さん…全然小品じゃありません。」
目の前で繰り広げられる会話の中になにやら聞き慣れない専門的な言葉が混じり始め、秀一は目を白黒させるしかなくなった。
が、流れは良さそうだ。
ニコニコと優しそうな微笑みで店員にあれこれと迫るマダムと、のらりくらりと躱していく店員を交互に見る。その目がさながらお菓子を前にした幼児のように輝いていることは、秀一本人だけが気付いていない。
「ね、お願い!本当に小品1曲だけでいいわ!貴方も聴きたいわよね?」
「えっ…あ、はい!聴きたいです!めちゃくちゃ聴きたいです!」
「…はぁ…じゃあ、ここ片付けたらでいいですか?」
「えっ!いいんですか!?」
「もう、観客を待たせるなんて相変わらずなんだから!」
そんな文句を言いながらも嬉しそうにマダムは秀一の手を取り、店内の一番奥に構える立派なグランドピアノの真ん前に位置するソファ席に誘導した。
初めて座ったソファ席はふかふかで座り心地が素晴らしく良い。日当たりも良くてぽかぽかと暖かく、ずっと座っていたらなんだか眠気が誘われそうだ。
「ソーマくん、凄く上手なのよ。前はよく弾いてくれたんだけど、数年前にマスター…彼のお祖父さんが腰を悪くしてお店を引き継いでからは忙しくて全然弾いてくれなくなっちゃったの。」
秀一の正面の席に腰掛けるマダムの表情はどこかウキウキとしていて少女めいている。
ソーマくん、というのは恐らくあの店員の名前だろう。どういう字を書くのかわからないが、名前まで綺麗な響きだ。秀一は心の中で何度かその名前を反芻した。
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