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第12話
そこへ片付けを終えたらしい店員がやって来て、秀一たちには目もくれずにまっすぐピアノに向かい、静かな音を立てて蓋を開ける。
姿を現した白と黒の見事なコントラストは、秀一には全く馴染みのないものだ。
「選曲は任せていただいても?」
「ええ。」
ピアノ椅子に腰掛けて何度かペダルを踏みながら声をかけてくる店員に、即座に思い浮かぶピアノ曲なんて存在しない秀一はソファの上でガチガチになりながらコクコクと首を縦に振るしかなかった。
そして、数秒の間。
店内に溢れ出した柔らかな音色に、秀一は心の奥底からじわりと湧き上がる何かを感じた。
安心感と高揚を同時に覚える不思議な感覚。店員が奏でる音の世界に誘い込まれて、まるでふわふわと雲の上にでも立っているかのような気分になった。
ゆったりとした、どこかで聞いたことのあるメロディだが、曲名はわからない。まろやかな音色で奏でられたどこか懐かしいその旋律は、あっという間に終わりを迎えた。
パチパチというたった一人分の拍手、もちろんマダムによるそれで意識を取り戻した秀一は、慌てて拍手した。店員はさっさと蓋を閉めて軽い会釈をすると、ニコリともせずカウンターに戻って行く。
カフェの店員としてはあんなににこやかで優しそうなのに、どこか無愛想にすら思えるその態度は果たして照れ隠しなのか、それともカフェ店員の顔を作っているだけで元来の性格なのかもしれない。
「素晴らしいトロイメライだったわ。お釣りはいいから、また聴かせてね。」
マダムはそう言って諭吉を一枚テーブルに置くと、秀一に会釈をしてから店員に手を振って店を後にした。
トロイメライ。
曲名も聞いたことがある。今の曲がそうだったのか。
と、思って、秀一は先週見た光景を思い出した。『Träumerei』と書かれた看板を。
「あ、店の名前…」
読めなかった店名。あれはトロイメライと読むに違いない。
謎が解けてスッキリして、ほうっと感極まった秀一は、やがてハッとして立ち上がり、レジの真ん前に置きっ放しだった鞄から財布を取り出した。
「600円です。」
千円札を一枚差し出す。
先週と同じく店員の体温で少し温かい硬貨が返ってくる。それを握りしめて、秀一は絞り出すように尋ねた。
「また、来たいです…あの、お名前を教えていただけませんか?」
一拍置いて、店員はニコリと微笑んだ。
「桜井です。桜井 奏真。またお待ちしていますね。」
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