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第44話

ドアから顔だけ出した桜井は秀一と目が合うと、ほわんと破顔して外に出てきた。 「やっぱ勅使河原さんだった。中から人影見えて、ぽいなーって思ったんです。あ、雨降ってきました?」 どことなく楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。頬が僅かに上気して目元も色付いているのが夜のこの暗がりでもわかる。 ポツリポツリと先ほどよりも大粒の涙を零す空模様に、桜井は店のドアを大きく開けて秀一を手招きした。 「なんかもう梅雨だなー。どうぞ、また風邪引いちゃいますよ。傘貸します。」 おいでおいでと手招きしてくれる桜井の笑顔はなんだかいつもより無防備で可愛いけれど、望月の話を聞いて気分が落ち込み気味の秀一は素直に受け取ることができなくて、遠慮しますと手を振ろうとした。 その手は振られる前に、桜井によって捕らえられた。 そのままグイッと引っ張られる。決して強い力ではなかったが、油断していた秀一はアッサリと店内に引き込まれた。 店内はすっかり片付いて店仕舞いは済んでいる。桜井本人もいつものギャルソン服を脱ぎラフな格好だった。 しかし奥のピアノは大屋根まで全開で、ピアノから一番近いソファ席のテーブルには分厚い本─恐らく楽譜だろう─が積み上がっている。そしてその隣に、ビール缶が二つ。 「桜井さん…酔ってます?」 「んー?そんな酔ってない。」 いや、酔ってるだろ。 ふんふんと鼻息混じりの桜井は随分ご機嫌だ。無邪気な言動も無防備な笑顔も酒の勢いに違いない。しかも結構絡み酒の予感がする。 「なんか弾こうか?」 「え?」 「ほらー、随分前にまた聴きたいって言ってくれたじゃないですか。」 「そりゃ、まぁ、聴きたいですけど…でも」 「雨降ってるからなぁ、なんにしようかな。」 天気関係あるのか。 全く秀一の話を聞いてくれない桜井は積み上げられた楽譜の山からいくつか引っ張り出してパラパラと捲り、しかし結局全ての楽譜をまた山に戻してくるりと秀一に背を向けると、ピアノに向かった。

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