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第67話
「そ、…ッ…」
ソウマ。
非常に呼びやすいたったの三音が出てこない。息が詰まって吃ってしまう。名前一つで躓いて情けない!と自分を叱咤するのだけど、そう思えば思うほど出てこない。
顔に熱が集中し、これでもかというほど赤面しているのが手に取るようにわかる。口を開いても出てくるのは震えた吐息ばかり。
「そッ…」
桜井の目が期待にキラキラしている。果たしてその期待が名前を呼んでくれることへの期待なのかそれとも秀一が面白い反応をしてくれることへの期待なのかはわからないが、秀一は前者だと思い込みグッと生唾を飲み込んだ。
ここで応えなければ、男じゃない。
「そ、そうま………………くん!」
沈黙。
しまった、まずったか。でもこれが限界かも、どうしよう怒ったかな。
メガネのレンズを介していても射抜かれそうな真っ直ぐな視線がちょっと怖いくらい。
冷や汗をダラダラ流しながら取り繕う言葉が何かないかと考えていると、桜井はクスッと小さく笑った。
「………ま、いいや。」
パアッと空気が華やいで、だらだら流れていた冷や汗は一瞬にして引き、心の中に春の陽だまりのような温かさと満開の花畑の香りが広がった。
残念ながら季節はジメジメの梅雨である。
「秀一らしいよ。」
「うっ…」
「なんか飲む?」
「カフェオレ…」
「はいよ。」
その場を後にしてカウンターの奥に消えていく桜井の後ろ姿は心なしかご機嫌だ。やがて漂ってくるコーヒーの香り、お湯が沸騰する音。秀一は知らず微笑んだ。
「奏真くん。」
「ん?」
「なんか弾いて。」
「なんかってなんだよ。」
マグカップにカフェオレを注ぎながらくつくつと楽しそうに笑う桜井をカウンターの外のフロアからちょっと遠目に見る。
これが秀一にとっては1番の癒しだ。
「だってクラシックなんて知らないし。じゃあこの前弾いてくれたやつ。」
「この前?トロイメライ?」
「違う、その次。奏真くん酔っ払って俺をここに引っ張り込んだ日。」
「ああ、襲われた日ね。」
「おそッ…!」
否定しようとして、やめた。
酔ってるところを後ろから急に抱きしめられたら怖いだろうから。
秀一はバツの悪さを誤魔化すために眼鏡を直し、再び口を開いた。
「あの曲、なんて曲?」
桜井がカウンターから出てくる。
ほんのり立つ湯気に乗せられて鼻腔をくすぐる甘いカフェオレの香り。
「雨の庭。」
雨降ってきてたから、と微笑みながら、桜井はピアノの蓋を開けた。
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