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第68話
すっかり梅雨の気配が過ぎ去った7月のある日。
朝からカンカン照りの日差しに汗だくになりながら毎朝通勤している秀一の日曜日の朝は、実は仕事の日よりも早い。
朝6時にスマホがけたたましく鳴らすのは、かの有名なルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲の交響曲第5番第1楽章。
「…っし、やっぱこれが一番目が醒める…」
誰もが知る『運命』に叩き起こされるのだ。
───
真夏に差し掛かっているとはいえ、まだ朝の7時。過ごしやすい気候の中なら汗だくになることもなく日向を歩くことができる。
悠々と歩みを進め、秀一が真っ直ぐに目指すのはアパートの最寄駅近くの裏路地にある古いカフェ、Träumereiだ。
「おはよう、秀一。」
カランカランと軽快なドアベルを聞きながら店内に顔を出すと、振り返るその人。
「お、おはよう奏真くん。」
ラベンダーだのフローラルだのといった華やかで上品な香りが漂ってきそうな笑顔を振りまくカフェのオーナーは、正真正銘秀一の恋人だ。
優雅なクラシックが流れる木造のカフェで柔らかな笑顔を浮かべながら水とメニューを持ってきてくれた桜井は、秀一の目の前の席に腰掛けて頬杖をつく。
いつもその調子で何か話し出してくれるので秀一は当たり前に桜井の言葉を待ったのだが、今日の桜井はなかなか口を開かない。大真面目な顔でジッと秀一の顔を見つめたまま。
綺麗に整った顔から発せられる熱がこもったような気がしなくもない視線に、秀一はドキッと胸を高鳴らせた。
「…秀一ってさ。」
「ん!?」
「25だよな?10年前って中学生?」
「えーっと…うん、そうだね中3かな。」
「ガラケー持ったことある?」
へ?
と、間抜けな声が飛び出した。
「会社のケータイはガラケーだけど…」
「自分のは?」
「俺は最初からスマホだった。」
「うわマジか!」
普段あまり大きな声を出さない落ち着いた雰囲気の桜井から発せられたのは、似つかわしくない驚愕の声。
ガラケーごときで何をそんなに驚くことがあるのかとクエスチョンを飛ばす秀一に、桜井は若干項垂れた。
「年の差4つって結構でかいんだな…」
「どうしたの急に?」
「いや昨日剛と飲みに行ってそんな話になったんだよ。」
「望月さんと飲みに行ったのか…」
できればやめていただきたい、とは言わないでおいた。
2人の過去のお付き合いの真実を知った今も望月への信頼そのものが回復したわけでもなかった。
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